遥かなるシルクロードの旅 2007

西安・鐘楼

西安・大雁塔

西安・兵俑

西安・馬俑

敦煌・莫高窟

敦煌・莫高窟

敦煌・月牙泉

敦煌・舞踏

敦煌・陽関

敦煌・玉門関

敦煌→トルファン

トルファン・高昌故城

トルファン・高昌故城

トルファン・火焔山

トルファン・千仏洞

トルファン・子供たち

トルファン・西瓜

トルファン・舞踏

トルファン・蟠桃売り

ウルムチ・天池

龍谷大学で仏  教(ほとけのおしえ) を学ぶ学生(がくしょう)6名、比丘尼(びくに)1名、(ぶつ)()3名、計10名が入唐(にっとう)長安(ちょうあん)をめざす。
そして玄蔵三蔵が経典を求めて天竺へ歩んだ道、そのほんの一部であるがシルクロードを歩む。

西安
 
興慶宮公園

西安の朝は早い。6:30、あちこちの公園などでは大勢の人たちの体操や太極拳が始まっていた。
佐竹さんと私は「中国古典文学講義」の筧先生から宿題を与えられていた。
玄宗皇帝と楊貴妃が仲睦まじく過ごした興慶宮、今は公園になっているその宮跡の、「勤政務本楼」前の馬車を導入するための敷石、その写真を撮ってくること、という課題である。

ふたりは6時に飛び起きた。今日の出発は8時、それまでに興慶宮跡の宿題を果たすため、朝食も取らずにタクシーに飛び乗った。
言葉が通じないから地図で示し、公園前では手振り身振りで「ここで待つように。私たちは写真を撮ってまたホテルに戻るから。金ははずむから。・・・」運転手は「解った!」と云ったと思う??
ふたりは駆け足で「勤政務本楼」を捜した。石碑でこの文字を確認し、石ころが数個平行に並ぶ、なんやよう分らん写真を撮った。
この興慶宮は阿倍仲麻呂や李白が玄宗皇帝に仕えたところで、園内には「阿倍仲麻呂記念碑」が立つ。側面にはふたりの漢詩が刻まれている。
  望月望郷  晁衡(阿倍仲麻呂)
   翹首望東天  首を()げて東天を望めば
   神馳奈良辺  神は()す奈良の辺り
   三笠山頂上  三笠山頂の( )
   思又皎月圓  思えば又皎月(まどか)ならん
  
  哭晁卿衡  李白
   日本晁卿辭帝都  日本の晁卿(ちょうけい) (てい)()()
   征帆一片遶蓬壺  征帆一片 (ほう)()(めぐ)
   明月不歸?碧海  明月は歸らず 碧海に?(しず)
   白雲愁色滿蒼梧  白雲愁色 (そう)()に滿つ


ホテル前では、太極拳の先生による模範演技が行われていた。この先生どこかで見た方、と思ったら仲間の高橋さんの奥さんでした。日本からこのために服装を用意し、ここ西安で晴れの舞台の模範演技でした。おみごと!

大雁塔(慈恩寺)
 

鐘楼

西門

大雁塔

大雁塔
 
 
西安市内、車窓から「鐘楼」を眺め、「西門」で小休止、そして大雁塔(慈恩寺)に着いた。
慈恩寺は唐の三代皇帝高宗が648年に母を供養するために建立した仏教寺院。境内に四角七層、高さ64メートルの塔、大雁塔が建つ。玄奘三蔵が禁を犯してインドに渡り、仏教経典を持ち帰った。その経典を保存するために652年に建立された塔である。

壁が新しく塗り替えられていた。中国の寺院などに使われるこの朱色が私はとても好き。
塔の前ではみんなが躊躇していたので、「上まで登ろうよ」と声をかけた。折角ここまで来たのだから。西安市内が一望できる。でも、今朝の西安の街は朝霞だろうか、遠くシルクロードに旅立つ道は霞んで見えた。
この塔に登るのは有料、入塔料表に「学生」とあったので、龍谷大学の学生証を出した。「ダメ」と云われた。

秦始皇兵馬俑博物館
 
 

なんといっても今回の旅の圧巻はこの「秦始皇兵馬俑」だ。
私は何度もこの前に立ったが、いつも足が震え、鳥肌がたつほどの感動を覚える。
何千という兵俑、馬俑が立ち並ぶ。ヒゲを蓄えた男、髪を束ねた男、軍服を着た男、鎧を着けた男、みんなそれぞれがまるで生きているかのようにそれぞれの顔を持つ。
ミニチュアではない。等身大というのか、190aもある俑像である。
紀元前221年、中国を始めて統一した秦の始皇帝、その偉大さをまざまざと見せつける。そして、前210年7月丙寅の日、始皇帝は沙丘の平台で死去した。50歳。
その陵の東方に埋められていたのがこの兵馬俑である。彼は死後の世界でもこのような兵士を連れ、永遠の中国の皇帝を夢見ていたのだろう。

しかし、その後の秦帝国はもろくも崩壊をする。項羽と劉邦である。前209年には各地で反乱の挙兵が起こり、のちに漢の高祖となる劉邦、そして劉邦と天下を争った項羽である。
兵馬俑坑1号館の片隅で「むしろのような物の焼跡」が発見された。この地まで攻め入った項羽がこの始皇帝陵に火を放ったと『史記』は伝える。その時の焼跡が「これ」という。・・・・すごい・・・・?

仲間のひとり水口さんが、「鴻門の会」に行ってみたいという。劉邦が項羽の陣営を訪ね、陰謀から危機一髪逃げ帰ったその会談の地である。ここから10`ほど北東の距離で、帰り道に寄ってくれないかとガイドに求めたが、いろいろの理由を並べて体よく断られた。安いツアーは融通がきかない。
華清池
 

時代は下って唐、8世紀の中頃、ここ驪山の北麓の温泉地に華清宮が造られた。
玄宗皇帝と楊貴妃との熱いロマンスで有名なところ。ふたりは長安の興慶宮にいつもは住んでいたが、長安の冬は寒い。だから冬になるとこの華清宮に居を移し、温泉を楽しんだという。『資治通鑑』には、天宝元年冬十月二十六日から十一月二十八日と、天宝三年冬十月十三日から十一月二十日と記す。
李白もお供をしてこの地で「侍従遊宿温泉宮作」という詩を詠んでいる。
白楽天の「長恨歌」の一節にも、

  春寒賜浴華C池  春寒に浴をせよと仰せをいただいた華清池の

  温泉水滑洗凝脂  温泉の湯はなめらかに 白くつややかな肌を洗う
 
その楊貴妃のお風呂がある(左)。右は玄宗皇帝のお風呂、どちらも泳げそうである。玄宗皇帝はきっと、「今日はこっちで一緒に入ろうや」と楊貴妃を誘ったと思う。私が皇帝ならそうする。
いまでも温泉が湧いていて、5角(8円くらい)で手や顔を温められる。
 
西安から空路敦煌へ
 

夕刻、西安を発ち敦煌に向った。昔の人たちはラクダに乗り、あるいは徒歩で長い道のりを敦煌に向った。私たちは2時間半の飛行である。西に太陽が沈む。上弦の月が顔を見せる。
敦煌機場に着いた。タラップを降りながら見上げた敦煌の夜空は満天の星、北斗七星が輝いていた。
ホテルの私の部屋では深夜までビアパーティが続いた。

敦煌
 
莫高窟

中国三大石窟のひとつ、鳴沙山の東壁に4世紀中葉から元代にいたる1000年間の仏像・仏画が石窟の中に保存されている。残念ながらカメラ持込み禁止のため、外観の写真しかない。
500窟近く保存されているらしいが、時間の都合と先方の都合で10窟あまりを渡り見学をした。美術雑誌で見るような超有名な石窟は別料金になっていたり、今は閉鎖中と云って見られない。一般公開の窟からの想像力で美術雑誌を眺めざるを得ない。NHKの「シルクロード」のビデオもいい。

莫高窟でもうひとつ有名なのは、「蔵経洞」。
1900年ひとりの道士が、第17窟甬道の壁の奥に別の石室を発見した。天井までびっしりと溢れんばかりの経典などが埋められていた。その数は数万巻に及んだ。
だれが何のためにこのような隠蔽をしたのか、今も謎のままであるが、井上靖の小説『敦煌』では、西夏の侵攻による敦煌城落城の直前にこれらの経典が慌しく隠されたと設定されている。
発見当時、中国清政府はまったく興味をしめさず、そのためイギリス・フランス・ロシア・アメリカそして我が大谷探検隊などが敦煌を訪れ、発見者との個人交渉で莫大な経典が海外に流出することになった。
その蔵経洞を今回は見ることができた。右の写真は映画「敦煌」の1シーン、経典が石室に運び込まれている。

鳴沙山・月牙泉
 

鳴沙山、まさに砂でできた山だ。強風に舞う砂の音は、どこか管弦の音のように響くという。鳴沙山である。
らくだに乗って月牙泉に向った。おとなしい動物であるが、背が高いから立ち上がる時には振り落とされそうになる。
月牙泉は砂漠の中に湧く泉だ。砂丘の頂上から見下ろす古寺と泉は美しい。
頂上と簡単に云ったけど、この頂上まで登るのはひと苦労、暑い太陽の日差しを受け、砂に足を取られながら頂上を目指した。息が切れた。登った仲間は、橋本さん・山本さん・水口さん・塩見さん・そして私の5人。
帰りはそりに乗って一気に下山、かなりの勾配でなかなかスリリングである。
この砂丘滑りは厄除けとして知られている。

敦煌の街
 

敦煌で果物を買うときは「1斤・いくら」のはかり売り、懐かしい天秤で重さを量ってくれる。西瓜が1個5元(80円くらい)だ。食料雑貨店ではビールを買い求める。安い。缶ビールは2.5〜3元、4〜50円というところだ。ワインも買った。白酒も買った。
夜の街にも出かけた。ネオンいっぱいの通りにお土産屋さんや屋台も並ぶ。食べ物はちょっと遠慮しておこう。正露丸の世話にはなりたくない。
買い求めたお酒と果物で、ホテルの一室、宴会が始まってしまった。疲れを知らない愉快な仲間たちである。

陽関
 
 

  送元二使安西  王維

   渭城朝雨?輕塵  渭城(いじょう)朝雨(ちょうう) (けい)(じん)?(うるお)
   客舎柳色新  客舎(かくしゃせいせい)として柳色(りゅうしょく) (あら)たなり
   勸君更盡一杯酒  (きみ)(すす)む (さら)()くせ(いつ)(はい)(さけ)
   西出陽關無故人  西(にし)のかた 陽關(ようかん)()づれば故人(こじん)()からん
 

陽関、かなり観光化されていた。その昔はただ烽火台がポツンとあるだけであったが、今日は違った。
きれいなお姉さまの歓迎舞踏で迎えられた。そしてこの関の通行手形を発行してくれる。木札を編んだ立派な手形に個人名を記してくれる、中央にでんと座る官吏風のお兄ちゃんが。そして城門を出るときはこの通行手形の検閲がある。門兵が確認の印を押してくれる。もう戻れないかもしれない。陽関を出づれば故人なからん・・・。故人って死んだ人のことではなく友人と言う意味。
なかなかおもしろい発想で中国も観光事業を始めた。

ところでこの敦煌で予想もしなかったことが起きた。年間雨量が40_という、日本では一日の降雨量、そんな少雨の砂漠で雨に降られた。ほんの少しだったけど、貴重な体験と思った。
 
玉門関
 
 

  涼州詞  王之渙

   黄河遠上白雲間  黄河 遠く(のぼ)る  白雲の間
   一片孤城萬仞山  一片の孤城  萬仞(ばんじん)の山
   羌笛何須怨楊柳  羌笛(きょうてき) 何ぞ(もち)ゐん  楊柳を 怨むを
   春風不渡玉門關  春光(わた)らず  玉門關(ぎょくもんかん
??)
 
陽関と並び西域へ通じる重要な軍事通商の関門である。ここは未だ観光化されておらず、広い荒地にポツリと遺跡が残る。
空はたちまちに晴れ、夏の太陽が輝いた。
 
敦煌からトルファンへ
 

敦煌駅20:16発の寝台列車に乗った。明日の朝8:22着である。「軟臥」という4人一組の寝室である。
中国の旅も快適になった。きれいな寝室で、ベッドも臭くない。ゆっくり寝られそうである。
年寄りは下段、若者は上段にベッドを取り、(年寄りはトイレが近いから、慌ててベッドから落ちられても困る)、もちろん私は上段。持ち込んだ日本のカップラーメンを食べながら談笑、いつの間にかみんな寝息をたてていた。

トルファン
砂漠と荒野を走り続けて(真っ暗でしかもぐっすり眠っていましたからホントはなにも分りません)、トルファンに着いた。
 
高昌故城
 
 

漢族の麹文泰が491年に建てた高昌国の城跡で、歴史的には、漢代の武帝が置いた郡が独立したことに始まる。628年ころには、玄奘三蔵がこの高昌国に立ち寄り講義をしたといわれる。しかし、その直後には、唐によって滅亡の途をたどった。

アスターナ古墳群
 

漢民族国家、高昌国時代の貴族の古墳群で、その数は数百という。荒地のあちこちに土まんじゅうの盛り土があるだけだ。
でもその下に眠る墓室はすごい。見事な壁画があり、このような気候のためだろう、1400年も眠り続けたミイラを2体見ることができた。

火焔山
 

孫悟空にも登場する火焔山、トルファン盆地の北端に100`にわたって連なる山脈である。木々はまったく無く、ただ赤色の山肌を見せるだけである。
気温は真夏40℃を越え、地表温度は60℃にもなるという。
昨夜火焔山の北向こうウルムチで雨が降ったという。その涼しい風が山を越えて来たため、今日はいくぶん涼しいという。それでも照りつける太陽の陽射しは肌に痛い。

ベゼクリク千仏洞
 

石窟寺院はムルトク河沿いの断崖にある。
ベゼクリクとはウイグル語で、「美しく飾られた家」。6世紀の隋の時代から14世紀まで、この石窟寺院には多くの壁画や仏像が造られた。
しかし、14世紀末イスラム教徒がトルファン盆地に侵入し、宗教的な対立はこの石窟を大きく破壊することになる。さらに20世紀の初めには外国人探検家によって、あるものは破壊され、あるものは海外に持ち出されてしまった。さらに文化革命の時代、紅衛兵の手で天井の仏画まで全てをたたき壊された。一部に修復が始まっていたが、泥を塗りつけた仏顔が痛々しい。

龍谷大学
誓願図「デイーパンカラ佛授記」

かつて第4号窟に描かれていた仏教壁画をデジタル復元したものである。

この壁画は、1905年ドイツ隊によって持ち去られた後、第2次世界大戦の戦火で破壊され、ほとんど現存しない。龍谷大学古典籍デジタルアーカイブ研究センターでは、唯一残された図録の白黒写真をもとに、発掘当時の記録や他の仏画を参考にしながら、最新のCG技術を駆使し、2003年デジタル復元に成功した。さらに原寸大の陶板画に仕上げ、現在2枚の誓願図は大宮図書館の正面玄関ホール左右に飾られている。
 
トルファンの市場
 

今夜も私の部屋ではパーティ、ハミウリと蟠桃の果物パーティ

ウルムチ

天池

天山山脈の主峰ボグダ峰の山中に天池はある。標高が2000bの高地にあり、とても神秘的な池である。池というよりは湖であろう。
昨日まで荒涼とした砂漠の景色ばかりを眺めてきただけに、今日のこの景色にはうっとりと見とれてしまう。
白い雪を冠する天山の主峰、蒼い湖面、緑の木々、美しいと思う。このような景色は日本で見慣れているはずなのに、ここ中国の北端のウルムチにいるということがより感慨を大きくする。

登山道の途中には小さな池があった。西王母がこの池で足を洗った伝説の池という。この天池には西の国を治める西王母の霊が宿るという伝説もある。
中国人の観光客は、みんな駐車場からてくてく歩いて登るのに、私たちは電気自動車で池のそばまで連れてくれた。年寄りグループと見られたのかもしれない。
 
新疆ウイグル自治区博物館
 

今回の旅の最後に訪ねたのがこの博物館である。
なんといってもこの博物館での圧巻は、「楼蘭の美女」に出会えること。初恋の人に会うようなどきどきしながら会場に向った。でもこの人、今3800歳。

紹介します。私の恋人「楼蘭の美女」は左端のちょっと日焼けしたような女性です。中央は2800歳になるこの人もきれいな女性です。右端は1400歳になる高昌国の軍人さんです。いまにも眠りから覚めて「えらい遠いところから来ていただいたんですね」と声をかけられそうです。

この博物館を最後に、日本への帰路に着いた。ウルムチ空港から北京へ、1泊して関空に向う。
水口さんが機内での楽しい写真を撮ってくれていた。
 

大阪→北京

北京→西安

西安→敦煌

ウルムチ→北京

北京→大阪

楽しい旅、みなさんどうもありがとう。
北京空港でのこの写真を最後に、旅の想い出を閉じます。



Photo by Hiroaki Takahashi,Keiko Mizuguchi,Noriyuki Shiomi and Hisamitsu Tanaka.
 


高橋さんの写真集から
先ずは兵馬俑いっぱい
 

敦煌の舞踏

逸品


西安・鐘楼

敦煌・月牙泉

敦煌・玉門関

トルファン・車窓

トルファン・高昌故城

トルファン・火焔山

トルファン・天山山脈

ウルムチ・風力発電

ウルムチ・天山主峰

機内・天山山脈

機内・天山山脈

Photo by

佐竹さんの写真集から


敦煌・莫高窟

敦煌・鳴沙山

敦煌・鳴沙山

敦煌・月牙泉

トルファン・車窓

トルファン・一路

トルファン・駱駝

ウルムチ・風力発電

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