西安

秦の軍陣・兵馬俑

私が兵馬俑坑博物館を訪ねるのは二度目だ。10年前、会社の仲間今里修作君とふたりで西安・敦煌の旅をした。当時はまだ、十分な施設も出来上がっておらず、発掘途上だった。でも、第1號坑に入り眼前に広がる兵俑の軍団を目にしたとき、足が震えるようにその感激を覚えたことを思い出す。
今回もその感激は同じで、何百、何千の兵俑と馬俑が迎えてくれた。まだ発掘は進められているが、第2、第3號坑も整備され、また、銅車馬の展示場も出来上がっていた。現在はこのように写真も撮らせてくれる。世界遺産に登録され、周囲の整備もどんどん進んでいて、ちょっと観光化された雰囲気もあるが、仕方ないだろう。
右下の写真は、1974年3月、井戸堀をしていた村人「楊志發さん」が偶然に兵俑の破片を見つけたことがこの偉大な発見となった、その人楊さんと家内である。ふたり並んで歩いているが、話し合っているわけではない。偶然横を歩いているだけだ。
10年前も、入り口のところで楊さんは立っておられたが、その時はまだ農民服を着て、笑顔で歓迎してくれていた。今回は、国の官吏になったのだろう、制服を着用し、パイプタバコを吹かしながら、ちょっと偉そうに?歩いていた。この地でスターなのだろう。総合施設楼というところで、自分の席にどっかりと座り、私たちが買い求める資料本にサインをしてくれていた。120元の資料を求め、私もサインをお願いした。
秦の始皇帝がその陵墓の周囲にこのような等身大、それよりもちょっと大きい(190aくらい)の軍兵を何千体も連れて眠っているということ、兵ひとりひとりの顔がみんな違う、気が遠くなりそうな遠大な構想でこの陵が出来ていること、すごいなぁの言葉以外に表現を知らない。

秦始皇帝陵

秦の第一世皇帝、始皇帝は13歳で秦の王となり、16年間で列国を滅ぼし、前221年中国を統一した。即位と同時に70万人の囚人を動員して自らの陵墓を造り始めたと云う。地下には宮殿があり、盗掘を防ぐため、様々な仕掛けをしたというが、その全容は明らかではない。後に項羽に破壊され、財宝は略奪されたともいう。陵墓の頂上から見る驪山の風景は静かな田園が広がっていた。
訪れた日、地元の若者たちが衛兵となって交替式を演じてくれた。

華清池

秦代から続く温泉地で、唐の時代、玄宗皇帝がここに華清宮を建て、楊貴妃と愛の日々を送ったといわれている。池の周りには柳が新芽を吹き、薄桃色の梅が咲き、ここに楊貴妃が現れたら最高と思いながら温泉の湯に手を浸していた。手を温めるだけで5角(6円位)。右写真は楊貴妃がその美しい身体を浸したというお風呂。

陝西省歴史博物館

周・秦・漢・唐の時代の文物が陳列してあり、西安の歴史をじっくりと見られる。時間があれば1日中でも見ていたいところだ。
写真は、この旅行で買い求めた俑人形、左は唐の時代の婦人陶俑、中は同じく唐の時代の胡人が楽器を弾いている陶俑、そして右は兵俑。高さは40aくらいあって、これを手荷物で持ち帰ってきた。割れないように苦労して苦労してのお持ち帰りだ。俑の回りには、昨夜まで着ていたパジャマやTシャツをクッション代わりに詰め込んで頭には私の靴下を被っていた。

碑林

まさに碑の林なんですが、よく分かりません。「倭」の文字だけを探してきました。

興慶公園

唐の6代皇帝玄宗が楊貴妃とともに住んでいた興慶宮の跡地である。阿倍仲麻呂が当時ここで玄宗皇帝に謁見したということで、記念碑が建てられている。碑側面には、仲麻呂と親しかった李白の詩と、仲麻呂自身の望郷詩が刻まれている。私たちには、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」を百人一首などで知られているが、当地では漢詩に訳され、は次のように詠まれている。

  翹首望東天 神馳奈良辺 三笠山頂上 思又皎月圓

首を翹げて東天を望めば 神は馳す奈良の辺り 三笠山頂の上 思えば又皎月円ならん


仲麻呂は、養老元年(717)17才で入唐、名を兆衡と改め玄宗に仕え、李白・王維などと親交があった。天平勝宝五年(753)、遣唐使藤原清河にしたがって帰国の途についたが難船して果さず、宝亀元年(770)、唐土に没したといわれる。
2004年10月、西安で遣唐使「井真成」の墓誌が発見された。「国号日本」と記され、優秀で、国命で派遣され勉学に励み、宮廷で役職についたが、急病で開元22年(734)に36歳で死去、魂は故郷に帰るだろうと記されてある。年齢から仲麻呂と同じ養老元年の遣唐使として入唐したとみられる。日本では官位がなく、名簿には載らないが、死後に玄宗皇帝から贈られたのは「尚衣奉御」という従五品上の役職。真成が死亡した年に仲麻呂は従五品下に昇格しており、ふたりは似たコースを歩んでいたと思われる。(朝日新聞記事より)

2005・10・3 奈良国立博物館「遣唐使と唐の美術」・・・発見された青年遣唐使、井真成の墓誌・・・

井真成の墓誌。こんなに早く日本で展示されるとは思っていなかったが、学者の方や郷里とされる藤井寺市の方々の努力があったのだろう、9月20日から10月10日まで奈良国立博物館で展示された。

青年遣唐使井真成、中国に渡り懸命に学びながら志半ばで亡くなってしまった。その年の秋、唐から遣唐使を乗せた船が日本に着いた。彼は帰国目前であったのかもしれない。そして1271年後、彼の墓誌が日本に帰国した。

無念であったろうと、しばらくの間この墓誌を見続けていた・・・・。

明の城壁

茂陵・茂陵博物館

茂陵は前漢5代皇帝武帝の陵墓。53年の歳月をかけて造営したといわれる。周辺には、皇帝に仕えた英雄たちの墓が多く見られる。下段写真は霍去病(カクキョヘイ)の墓。
漢の武帝は、侵入してくる匈奴に真っ向から戦いを挑んだ。紀元前121年、驃騎将軍霍去病は隴西から二度も出撃し、一回は焉支山を越え、また一回は祁連山を越えた。匈奴は霍去病に大敗を喫して遠くに逃れ、金城(今の蘭州)から西へ塩沢(新疆ロブノール)に至るまで匈奴の跡は絶えた。しかし、霍去病は24才の若さで病に倒れ、この勇将を悼んで武帝はこの墓を造らせた。墓形は功をたてた祁連山をかたどっているといわれる。

石造物

乾陵

唐3代皇帝高宗とその妻則天武后の陵墓。長い参道には、天馬・人物・駝鳥などの石造が立ち並んでいる。また、六十一蕃臣と説明された石像が立ち並ぶ。高宗の葬儀に参列した各国の使節の像と云われている。西域諸国と唐の交流が大きかったことを物語っている。しかし、下右写真のように全ての像に首がない。これは後に生活に困った村人たちがこの首から上を切り取って売り払ったとも云われている。真意はどうなのだろう。則天武后は高宗の死後、息子の中宗、睿宗を相次いで即位させたがこれを廃して自ら聖神皇帝と称して国を大周とし、中国史上唯一の女帝として即位した人だ。人材登用では広く人物を求めたと評価されているが、まあ女性だけに若い男との噂が絶えなかったり、意見の合わない貴族は家族ごと殺してしまったり、悪い評価もかなりある女帝だ。また、次にあげる中宗の娘「永泰公主」は則天武后の怒りにふれ、17歳の若さで没したと云う。おばあちゃんに批判的だった彼女は、表向き難産のためにと云われたが、本当は殺されてしまったという。孫をも殺す怖い則天武后なのである。

石造物

永泰公主墓

則天武后の怒りにふれ、17歳で没した悲運の少女、永泰公主の墓である。奥には大きな石棺がある、これは本物だそうだ。暗い参道には、色鮮やかな女官の壁画が描かれている。これは模作。写真はだめと入り口に書いてあった。でも、ガイド君がちょっとだけならと言ってくれたので、思わずカメラを向けてしまった。ごめんなさい。
この壁画、明日香村の高松塚の壁画とよく比較されている女官の壁画だ。

大雁塔

慈恩寺境内にある大雁塔は、インドより経典を持ち帰った玄奘三蔵が、仏教経典600部余りを翻訳し、それを納めるために建立された。大雁塔は最初5層の塔として建立されましたが、則天武后の時代に10層となり、その後戦火に遭い現在の7層にいたっている。前回は早朝に起されてこの大雁塔を訪ねたので、今里君とふたり7階まで登らずに終った。今回は、是非7階から西安の街を、また西域に延びるシルクロードを眺めたいと階段を登り詰めて見下ろしてきた。でも、開発進む住宅地の建設現場が目立つばかりで、玄奘三蔵が経典を背負う姿とはほど遠い西域への道程だった。

春雨に烟る大雁塔を最後に、翌日北京に向う。

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