福王子神社

大津市南志賀2丁目

祭神 紀貫之卿

平安朝初期の最も優れた文学者で、三十六歌仙の一人、『古今集』の代表歌人で、其の撰者大和守紀望行の二男に生る。

延喜八年正月、土佐守となり赴任、承平四年十二月任を終えて帰京の途、『土佐日記』を紀行、翌年二月に入洛。

その徳を慕いて、一小祠を建て神霊を鎮め祀る。その後、この地に勧請せらる。

晩年、比叡山中腹裳立山に幽栖す。

小倉百人一首に、

人はいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける

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神社の傍は「福王子古墳」、石室が剥きだし。

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奥に進むと、大伴黒主神社がある。(別頁)

反対の国道バイパス沿いには、「榿木原遺跡」がある。

榿木原遺跡は、昭和50年から53年にわたる3次の発掘調査で、大津宮時代(667〜672年)の瓦生産遺跡であることが判明した。

この遺跡は范や型によって粘土から瓦を形づくる工房と、それらを乾燥した後で焼成する瓦窯とで構成されている。焼成した瓦は、すぐ

東方の南滋賀町廃寺で使用されていることが明らかで、この遺跡はこの時期における瓦生産の実態を知る上できわめて重要である。

瓦窯は、大津宮時代の登窯5基、奈良〜平安時代の平窯5基が入交じって3群をなして存在する。

工房跡では、長大な掘立柱建物が重複しながら6棟検出され、その内部や横から瓦に用いる粘土を貯えた粘土溜も発見されている。

この瓦窯群のうちの一窯は、国道161号線バイパス建設で現地での保存が困難なためそっくり切り取り、ここに移して保存した。

これは、地山をトンネル式にくりぬいた登窯で、入口の左右の石は焚口の施設である。その奥の床の平坦な部分は、瓦を焼くために

薪を燃やす燃焼部で、8段の階段は、乾燥させた瓦を並べて焼く焼成部、そして一番奥の上方に上る穴が煙の出る煙道である。

これらの登窯では、さそり文瓦と通称される蓮華文方形軒瓦や、復弁蓮華文軒丸瓦、重孤文軒平瓦、丸瓦、平瓦などが焼かれ、一

部は大津宮に係る建物に用いた可能性もある。平窯では流雲文で飾る軒瓦や鬼瓦、丸瓦、平瓦などが焼かれている。

蓮華文方形軒瓦

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東方に坂道を下ると、「南滋賀町廃寺跡」がある。

南志賀の地は、昔から古瓦が出土することが知られていた。

昭和三年と昭和十三年から十五年にかけての二度の発掘調査によって、塔、金堂、僧坊跡などが見つかり、この地に寺院が存在

していたことが明らかにされた。また、その後の調査で、この寺院跡の伽藍配置は、塔と西金堂が東西に対置し、これらをとりまい

て回廊がめぐる「川原寺式伽藍配置」であることがわかった。このうち、塔、西金堂、金堂の基壇は瓦積みで仕上げられていた。

この寺院は、天智天皇建立の崇福寺とも、桓武天皇建立の梵釈寺とも考えられていたが、『扶桑略記』に、崇福寺が大津宮の乾

(北西)の方向に建てられたという記事があり、この南志賀の地の寺院跡と同時に調査された滋賀里山中にも寺院跡が発見されて

いることから、そこが崇福寺跡として妥当性が高く、また、『日本後紀』には、崇福寺と梵釈寺が近接した位置にあったことが見られ

ることから、この南志賀に位置する寺院跡は、逸名の寺院、南滋賀町廃寺ということになっている。調査の際には多数の瓦や土器

が出土しており、その中にはこの地でしか見られない蓮華を横から見た文様で飾られた方形軒瓦もある。これらの遺物等から、白鳳

時代から平安時代末頃までこの寺院が存在していたことが明らかになった。この廃寺跡から約300m西の地点で、この寺で使用

した瓦を焼いた瓦窯群(榿木原遺跡)が見つかっており、瓦を手がかりに生産、需要、供給といった流通関係が明らかにされている。

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村の鎮守さま 福王子神社

万葉集を携えて

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