妓王寺
滋賀県野洲市中北
保元平治の乱を経て、源氏に勝った平家が武士として政権をにぎったが、その頂点にいたのが平清盛、全盛を極めた。
その頃都では、慰めものとして今様や舞がもてはやされ、それを演じたのが白拍子という芸妓、白の水干、立烏帽子の男装で歌いながら舞うから
白拍子と呼ばれた。その白拍子の中の白拍子が妓王(祇王とも)である。清盛の寵愛を一身に受けた。毎月百石百貫をもらっていたというからお手
当もすごい。白拍子仲間からは羨望のまなざしや妬みの目で見られた。ところがある日、加賀国から仏(御前)という白拍子がやって来て、なかなか
歌も舞も上手で、是非清盛に見て欲しいと訪ねてきた。清盛は「オレには妓王がいるから会わへん」と云ったのに、横で妓王が「ちょっとだけでも見
てあげて」と云ったのが運のつき、清盛は仏御前に心移りし、妓王・妹妓女・母刀自の三人は屋敷を追い出されてしまった。髪を下ろして三人は、
嵯峨の小庵で念仏の日々を送ることになる。翌年のこと、思いがけないことに、仏御前がこの庵を訪ねてきた、しかも髪をおろして・・・。
平家の盛者必衰を語る『平家物語』、ここでは女性の栄枯盛衰が語られる。妓王は歌う。
もえ出るも枯るるもおなじ野辺の草いづれか秋にあはで果つべき
・・春に萌え出る草々も枯れるも同じ野辺の花みんな秋になって枯れ果ててゆく・・
後世、妓王の出身地である近江国(現在の野洲市)に妓王寺が建てられた。
妓王寺の近くには、妓王の屋敷跡があり、石碑が立つ。
周りには静かな田園風景の広がる集落である。
野洲市中北の集落に、妓王寺はある。境内の案内板に、
その昔、近衛天皇の御代、江部荘に江邊荘司橘次郎時長という人があり、保元の乱に戦死した。時長の妻刀自は、二女を連れて京に出て、
娘二人は白拍子となった。時の相国平清盛は、白拍子を知り、その容姿を愛でて妓王と名づけ、殿中に仕えさせた。妓王、妓女姉妹ともに
清盛の寵愛を受けたが、無情を知り悲嘆にくれ、翠の黒髪を断ち切り、夜ひそかに御殿を逃れ、嵯峨往生院に隠れ、建久元年三十八才にして
大往生を遂げた。旧里江部荘では深く妓王の恩沢を感じ、生地中北に一宇を建立して妓王寺と名づけ、邸跡には碑石を立て、功績を永久に
伝えることになった。現在の妓王井川は、妓王の願いにより清盛が掘らせたこの地方の灌漑用の川である。
「妓王寺略縁起」に詳しい。
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境内の庭に、3基の石塔が立つ。
いずれが妓王、妓女、母刀自か分からない。
堂内の厨子に収まる4人の僧形木造
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妓王屋敷跡
「妓王碑」が立つ。
案内板に、
妓王と妓女の姉妹は、今から800年ほど前に、橘次郎持長の娘としてこの地に生まれたが、保元の乱で父を亡くしたため、母とともに
京都に出て白拍子になり、平清盛に仕え寵愛を受けた。
ある時、妓王は清盛から「何か望むものはないか」と聞かれたので、「故郷の人々が水不足で苦しんでおり、ぜひふるさとに水路を引
いてください」と申したところ、当時経済政策に力を入れていたこととも合って、早速清盛は野洲川から水路を引かせた。
このお陰で付近一帯(約三千反)の水不足は解消し、近江でも有数の米どころとなった。時に、妓王21才、妓女19才であった。
この水路は「妓王井川」と呼ばれ、今なお水田を潤している。
敷地内の碑にはこの妓王物語が刻まれており、近くには村人が感謝にて妓王寺が建てられている。
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妓王井川
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北村季吟
妓王屋敷跡がある中北の隣の集落は野洲市北で、そこは江戸時代初めの国学者北村季吟の生まれたところである。
『源氏物語』や『枕草子』や『万葉集』などなど古典文学の注釈で有名だが、なによりも有名なのは門下に芭蕉がいたこと。
俳諧では芭蕉のほうがずっと上を行くことになったけれど、先生がよかったからこそ、である。
その季吟はこの野洲の出身だから、妓王に、妓王井川に感謝していたから、
祇王井にとけてや民もやすごほり
北の集落には句碑がある。
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『平家物語』を訪ねて 妓王 生誕地 妓王寺