後白河上皇 法住寺殿

京都市東山区三十三間堂廻り町

蓮華王院(三十三間堂)境内にある「法住寺殿址碑」

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法住寺殿

保元三年(1158)八月、二条天皇に譲位して上皇になった後白河院が、約30年にわたり院政を行った政庁である。

上皇になると、天皇の住む御所とは別の所に院御所を造営するのが通例で、先例の白河・鳥羽の両帝に続き、

譲位直後に院御所の造営に着手、東山の麓から西は鴨川の川岸まで、南北は、八条坊門小路から六条大路に及ぶ

広大な地域で、その地名をとって「法住寺殿」と呼ばれた。

構内は、政治的な施設の「北殿」と、常の御所と呼ぶ住居に、三十三間堂をはじめとする宗教的な堂塔が集中した「南殿」に

分れていた。永暦二年(1161)四月、上皇はここに移り以後20年住まいとした。

しかし、寿永二年(1183)一月、対立するようになった木曽義仲の夜襲にあい焼失した。

800余年の昔に変わらぬ姿でこの場所に伝承されてきた三十三間堂は、その時代をしのぶ稀有の物証といえるであろう。

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蓮華王院(三十三間堂)

後白河上皇の願いに応えて、平清盛が法住寺殿内に寄進した御堂。

祖父の正盛は白河院に蓮華蔵院を、父の忠盛は鳥羽院に得長寿院三十三間堂を寄進している。

創建5年後、後白河院は本尊千手観音菩薩の前で出家、法名は行真。

堂内は中尊を中心に左右500体の観音菩薩が並ぶ。

我々観光客は北側の門から入るが、

蓮華王院南大門が、ほんとうは正面である。

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万葉集を携えて

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