建礼門院 寂光院

京都市左京区大原草生町

2000年5月、心無い放火により本堂は焼失、本尊地蔵菩薩も大きく焼損した。

特別拝観で、旧地蔵菩薩を拝した。痛々しい悲しいお姿で、真っ黒の墨のようになっておられた。

新しい本堂には、旧本尊とまったく同じように造られたという地蔵菩薩立像がおられる。五色の糸でつながれていて、私もその先を握りしめて手を合わせた。

『平家物語』にも、「御庵室にいらせ給ひて、障子を引あけてご覧ずれば、一間には来迎の三尊おはします。中尊の御手には五色の糸をかけられたり。・・・」

とある。仏さまとは五色の糸で結ばれる。

また、本尊後の厨子には建礼門院と阿波内侍の木像が安置されている。旧の像は焼失してしまった。新しい像は2006年の完成で、江利康慧仏師の作である。

 

江里氏は龍谷大学の客員教授もされていて、残念ながら私は受講できていないが、仏教美術を学んだ友人もたくさんいる。

また、その厨子の扉絵は、江里氏の奥さん、江里佐代子さんの作である。佐代子さんは人間国宝・截金師であるが、2007年フランスで突然に死去された。

奥さんの亡くなる1年前のご夫婦の作品、しばらく万感こもごもに見入っていた。

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「建礼門院庵室跡」

苔生す木立の一角にある、建礼門院が安徳帝をはじめ一ノ谷・屋島や壇ノ浦で亡くなった平家一門を弔った庵室の跡である。

おもひきや み山のおくに すまゐして 雲ゐの月を よそに見むとは  建礼門院

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建礼門院(平徳子)は、平清盛の次女として生まれ、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生んだ。

源平の合戦では、一門といっしょに都落ち、壇ノ浦の敗北で入水するも援けられて京都に送還、その後出家してこの寂光院で余生を送った。

後白河院の「大原御幸」は、ここを訪ねた。院が見た女院の庵室は、

「女院の御庵室をご覧ずれば、軒には蔦槿はひかかり、信夫まじりの忘草・・・杉の葺目もまばらにて、時雨も霜もをく露も

もる月影にあらそひて、たまるべしとも見えざりけり。うしろは山、前は野辺・・・」とあり、「くる人まれなる所なり」。

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庵室の右手にある清水は今もこんこんと湧き水をたたえている。

『平家物語』には、「岩間につもる水をば、八功徳水とおぼしめす」とある。

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寂光院裏山には「建礼門院大原西陵」がある。

近くの山々は、建礼門院が女官たちと花摘みにでかけたところだ。

また、近くの山麓には、建礼門院に付き添った女官たちの墓所がある。

阿波内侍、大納言佐局、治部卿局、右京太夫、小侍従局の5人である。

忘れたらあかん、そんなメモ書きのような石碑

「前列 阿波内侍 大納言佐局 治部卿局 右京太夫 後 小侍従局 の古墳」

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『平家物語』を訪ねて 建礼門院 寂光院

万葉集を携えて

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