平清盛 西八条邸

若一神社 京都市下京区西大路八条角

清盛は、六波羅の平家一門の本拠とは別に、八条大路の広大な敷地に邸を構えていた。

だから北の方時子は、「八条の二位殿」と呼ばれていた。壇ノ浦で安徳帝を抱きかかえて入水した二位の尼時子である。

若一神社は西八条邸にあった鎮守社だったのだろうが、境内に「平清盛公西八条殿跡」の碑がある。

『建礼門院右京大夫集』に、

春頃、宮の西八条に出でさせ給へりしほど、大方にまゐる人はさることにて、御はらから、御甥たちなど、みな番にをりて、二、三人はたえずさぶらはれしに、

花のさかりに月明かりし夜を、「ただにやあかさん」とて、権亮朗詠し、笛吹き、経正琵琶ひき、御簾のうちにも琴かきあはせなど、おもしろくあそびしほどに、

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春の頃、中宮(建礼門院)が西八条に里帰りされたとき、常に参上する人はいうまでもなく、はらから(兄弟)、甥たちなどみんなが集ってきて、

花の盛りに月明かりもきれいな今宵、なんもせんのはもったいないなあと、権亮(維盛)は朗詠し、笛を吹き、経正は琵琶を弾き、御簾の内からは琴が合奏するなど、管弦を楽しんでいたとき

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清盛の娘徳子が高倉天皇の中宮になり、ときには里帰りといって、この西八条の邸に帰ってくることがあったようだ。天皇の奥さんやから、親戚一同それは大変やったと思う。

みんなで管弦を楽しむなんて、なかなか優雅なお遊び、平家の全盛のころのことだ。

  かくまでの 情つくさで おほかたに 花と月とを たゞ見ましだに  中宮徳子
   こんなに風流を尽さなくても、花と月を見るだけでも素敵なのに、今夜は最高!

  かたがたに 忘らるまじき 今宵をば 誰も心に とゞめておもへ  藤原隆房 清盛の女婿
   あれこれいっぱい思い出つくった今宵、みんなぜったい忘れんといてな

  心とむな 思ひ出でそと いはむだに 今宵をいかゞ やすく忘れん  平維盛
   心に留めるな思い出すなといわれても、今夜のことはきっと忘れられへんわ!

  うれしくも 今宵の友の 数にいりて しのばれしのぶ つまとなるべき  平経正
   今夜仲間に入れてくれてありがと!いつの日か、楽しかったなあと思い出すのやろなあ。

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この宴から数年の後、平家一門は瀬戸内の海の藻屑と消えた。

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境内には、「平相国平清盛公」と刻まれた石標と清盛の石像。

六波羅蜜寺の清盛像とは似ても似つかぬ男前の清盛だ。だけど、束帯姿の清盛なんて想像できひんなあ。

境内には、祇王の歌碑もある。

もえ出るも 枯るるもおなじ 野辺の草 いづれか秋に あはではつべき

祇王はこの清盛の西八条邸で寵愛を受け、ここで白拍子として歌い舞い、

そして仏御前があらわれて、悲しくもこの邸を追い出されてしまった。

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平家一門の都落ちのとき、この邸はすべて焼き払われたという。

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若一神社の境内というよりも、西大路通にはみ出して大きな楠木がある。

京都市電の軌道工事でじゃまになり、この木を切ろうとしたところ、関係者に病を得た人が出て、

清盛のたたりと恐れられ、市電が避けて通るようになったという。

この楠木、「清盛公御手植」の神木とされている。

境内には、「平清盛公ゆかりの御神水」もあって、

清盛は毎朝ここで、蛇口をひねって顔を洗っていたのだろう。

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『平家物語』を訪ねて 平清盛 西八条邸 若一神社

万葉集を携えて

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