小督 清閑寺
京都市東山区清閑寺歌の中山町
京都・五条、東山のトンネル近くに、清閑寺と高倉天皇陵がある。
清水寺の奥といってもいい。
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宮中に戻った小督は、それはそれはだいじだいじに扱われた。
人知れぬようにこっそりと奥の部屋にかくまわれていて、毎日毎夜、高倉帝はこの部屋で過ごし、ついには女の赤子が生まれたという。後の坊門女院(範子内親王)である。
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しかし、これをこっそり清盛に伝える日和見なヤツがいて、またまた清盛激怒。
小督は引き離されて、東山・清閑寺で出家、尼にさせられてしまった。清盛はこんな横暴なこともできたんや、時の天皇に対してやで。
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そして、今度は清盛期待の娘中宮が懐妊、
神仏に祈願祈祷、罪悪人赦免などあらゆる手を尽して、男子(後の安徳天皇)が生まれたときには、清盛泣いて喜んだという。身勝手なヤツやなあ。
待望の天皇家男子で外孫やけど、天皇家のじ〜じになるわけや。
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実権を持たないまるで清盛の傀儡のような高倉天皇、天皇位を3歳の子安徳天皇に譲らされ、その後は空虚な日々であったのだろう、21歳という若さで亡くなってしまう。
最期に意地を張ったことは、「私が死んだら出家した小督のいる清閑寺に葬ってくれ」と遺言したそうだ。
遺言通り清閑寺に埋葬され、今も寺の奥山に高倉天皇陵がある。
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小督は出家の後は、この清閑寺で天皇の菩提を弔いながら生涯を終えたという。
天皇陵だから域内には立ち入れないが、天皇の傍に小督の墓もあると寺伝には記されている。
正妻の建礼門院は京都・大原でひとり静かに眠っているし、だんなは小督と寄り添うように眠っているし、けったいな夫婦やなあ。
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平徳子(建礼門院)は平家を代表した政略結婚そのもので、愛情も薄かったんやろな。
九条兼実の日記『玉葉』には、こんな記事がある。
高倉天皇が亡くなったら、つぎは平徳子を後白河院の妃にしようと話が持ち上がり、清盛夫婦は大賛成したらしい。
後白河院も鼻の下を伸ばして喜んだらしい。
しかし、徳子は頑として聞かず、そんなら出家すると拒んだという。清盛はやむなく徳子の代りに、厳島の内侍との間にできた姫を院に差し出したという。
こいつらは、自分の娘もふくめて女性をなんや思てんのや!
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清閑寺には小督の供養塔が立つ。
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『平家物語』を訪ねて 小督 高倉天皇 清閑寺