以仁王 墓

木津川市山城町綺田

以仁王は後白河法皇の皇子、順当ならば皇位継承者であったが、平家の血を引く弟の高倉天皇が皇位についた。

以仁王の母は、藤原季成の娘成子である。さらに、清盛の横暴は、

娘徳子の子(言仁親王)を安徳天皇として皇位につけた。わずか3歳であった。徳子とは建礼門院。

この以仁王に対し、義憤の源頼政が平家打倒の挙兵を勧めた。以仁王は諸国の源氏に平家打倒の令旨を発した。

しかし、早々熊野別当湛増の通報で清盛の知るところとなり、以仁王は女装して三井寺に逃げた。

三井寺では頼政と合流、三井寺僧兵も加わるが、延暦寺が味方につかず、南都に向かうことになる。そして、

宇治川での合戦、源頼政は自刃、以仁王はわずかの兵とともに落ち延びるが、ここ山城の地で矢を射られて落馬、頸をとられた。

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ここ山城町綺田に以仁王の墓がある。

隣接して高倉神社があるが、祭神は以仁親王である。

以仁王の住まいは京都・三条高倉にあった。今の京都文化博物館の地である。だから高倉宮ともいう。

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ところで、宇治橋の合戦で大活躍の三井寺僧兵がいた。筒井浄妙である。

「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にもみ給え。三井寺にはその隠れなし。堂衆のなかに筒井の浄妙明秀といふ

一人当千の兵物ぞや。われとおもはん人々寄りあへや。げざんせん」

勇ましい口上で、二十四本の矢を背負い敵に迫った。

たちまち十二人を射殺し、十一人に傷を負わせ、一本は残して、長刀で五人倒し、長刀が折れると、太刀で八人を倒す。

九人目で太刀が折れ、浄妙は平等院の前の芝の上に戻った。

鎧には六十三本の矢、鎧を突き抜けた矢五箇所、だけど致命傷には至らず、傷口にお灸をして、本来の僧の姿になり、

阿弥陀仏を唱えて奈良の方に落ちていった。

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以仁王墓から南に少し行ったところに、筒井浄妙墓がある。

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『平家物語』を訪ねて 以仁王 墓 高倉神社

万葉集を携えて

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