文覚 (遠藤盛遠)
恋塚浄禅寺 京都市南区上鳥羽岩ノ本町
恋塚寺 京都市伏見区下鳥羽城ノ越町
遠藤盛遠は北面武士、鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19歳で出家し文覚といった。
『平家物語』では大活躍の坊主で、
神護寺の再興を後白河天皇に強訴し伊豆国へ配流された。その頃伊豆国蛭ヶ島に配流の身であった源頼朝と知遇を得て、
頼朝に平家追討を勧めたのがこの文覚であったし、平家嫡流最後の「六代(維盛の子)」の助命を嘆願し、神護寺に保護したのもこの文覚。
頼朝の死後、三左衛門事件に連座して佐渡に配流、許されて都に戻るが、すでに六代は処刑されていた。
さらに、元久二年(1205)、後鳥羽上皇に謀反の疑いで対馬に配流になるが、途中客死した。
波乱の人生を歩んだ文覚であるが、出家についてこんな話が伝わる。
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袈裟御前という美しい女性がいた。
袈裟とは従兄妹で、子どものころからいっしょに遊んだ仲だった。大きくなったらお嫁さんにしようと心に決めていた。
しばらく会わずに時は流れ、ある供養の席でばったり袈裟に出会った。めちゃきれいなおなごになっていた。
ところが聞いて驚いた。人妻になっていたのだ。渡辺渡わたなべわたる(上から読んでも下から読んでも渡辺渡)という男とめおとになっていた。
頭にきた。今様にいうと、チョームカツク。激しい情愛が再び燃え上がった。嫉妬心がめらめらと噴き出した。直情型の盛遠である。
オレは三年間今か今かと待ち望んでいた袈裟との結婚なのに・・・。
遂に、袈裟の母(叔母)に刀を突きつけて脅した。「オレは袈裟が欲しいと日ごろから云ってたはずや、なのに・・・。オレといっしょに死ぬか、袈裟をくれるかどっちや」
嫁に行った袈裟を欲しいとはめちゃや。盛遠は狂った。
気が狂った盛遠は手がつけられない。
これを聞いた袈裟は悩んだ。歪んだ愛のために、大切な母や夫が殺されるかもしれない。
袈裟は悲しい決断をした。
盛遠とよりを戻すと伝えた。そのためには、「私の夫を殺して。そしたらあんたといっしょになれる」と。
深夜、酒をいっぱい飲んで不覚になった夫・渡を、盛遠一刀両断首をはねた。そして大願成就と首を持ちあげてみると、それは袈裟の首であった。
(『源平盛衰記』巻第十九「文覚発心」)
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袈裟御前は、貞女の鑑と後世に伝わる。
盛遠は罪深いおのれにようやく気付き、出家して文覚となった。
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袈裟御前の首塚が、なぜかふたつの寺に伝わる。
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「恋塚浄禅寺」 京都市南区上鳥羽岩ノ本町
寺伝によれば、寿永元年(1182)の文覚上人の開基で、境内に袈裟御前の首塚といわれる五輪石塔があることから恋塚の名で知られる。
袈裟御前の菩提を弔うために当寺を建立したとされる。
本堂には12世紀に作られた本尊阿弥陀如来立像を安置し、観音堂には10世紀の作とされる十一面観音立像を祀っている。
また、地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、平安時代の初め、小野篁が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、
一木から刻んだ六体の地蔵の一つと伝えられ、一般に「鳥羽地蔵」と呼ばれている。
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「恋塚寺」 京都市伏見区下鳥羽城ノ越町
(左)山門 (右)六字名号石
寺伝によれば、出家した文覚は、袈裟御前の菩提を弔うため墓を設け、一宇を建立した。当寺の起こりである。
本堂には、本尊阿弥陀如来像のほか、袈裟御前と源渡、文覚上人の三人の木像を安置している。
境内には、恋塚と呼ばれ、袈裟御前の墓と伝える石塔が建てられている。
その傍の六字名号石は、法然上人の筆で、文覚上人が建立した石板と言われ、
この筆蹟は、人倫の大道を教えるものとして、古来より詩歌、謡曲などで知られている。
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芥川龍之介の短編小説に「袈裟と盛遠」がある。ちょっと醜い男女関係に描かれているが。読んでみます?
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『平家物語』を訪ねて 文覚 遠藤盛遠 恋塚