平宗盛 終焉の地
滋賀県野洲市大篠原原
案内板に、
平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなく、ここ近江国野洲篠原の地である。
平家最後の最高責任者平宗盛は、源義経に追われて寿永二年(1183)七月一門を引き連れて都落ちをした。
西海に漂うこと二年、寿永四年三月二十四日、壇ノ浦合戦で敗れ、平家一門はことごとく入水した。
しかし、一門のうち、建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは生け捕られた。
宗盛父子は義経に連れられ鎌倉近くまで下ったが、兄の頼朝に追い帰され、再び京都に向かった。
途中、京都まであと一日ほどのここ篠原の地で、義経は都に首を持ち帰るため、宗盛と子の清宗の二人を斬った。
そして義経のせめてもの配慮で、父子の胴は一つの穴に埋められ、塚が造られたのである。
父清盛が全盛のころ、この地のために掘った妓王井川が今もなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは、
宗盛父子にとっては、この野洲・篠原の地がどこよりも安住の地であったであろう。
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このように、野洲の人々は、清盛と妓王にとても世話になったと感謝しているから、その息子宗盛の墓も大切に守っていてくださるが、
『平家物語』は宗盛のこと、ぼろかすに記している。
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宗盛は、清盛と時子との最初の子で、溺愛のおぼっちゃまだ。
そのために、「鹿ヶ谷の変」や「源頼政の謀反」などの原因を作ったとされる。
異母兄重盛そして清盛が亡くなって、この宗盛が家督を継ぐ。この宗盛という後継者が、平家を滅亡の運命に導いたといえよう。
壇ノ浦の合戦、時子(二位の尼)は八才の安徳帝を抱いて海に沈む。
教盛、経盛の兄弟は、重い碇を鎧の上に背負って海に飛び込んだ。資盛、有盛、行盛、つぎからつぎへ海に沈んでいく。
総大将の宗盛、舟の上でうろたえて見ているだけ・・・。
あまりに情けないので、見かねた侍たちが、横を通るふりをして、宗盛とその子清宗を海に突き落とした。
それでもふたりは沈まない。海を泳ぎ出してしまったのだ。
「なまじゐに究竟の水練にておはしければ・・・」、水泳が上手で沈みませんという。ふたりして泳いでいるところを、
源氏の伊勢三郎義盛が子の清宗を生け捕りにした。次に宗盛を捕らえようとしたところへ、
宗盛の乳母子の飛騨三郎左衛門景経が、宗盛をとられまいとして応戦、なのにそばで捕まった清宗はその様子をじっと見ているだけ。
ついには景経が討たれて、結局宗盛も生け捕りにされた。
・・・なんという親子でしょう。
京都に連れ戻され、洛中を引き回されたあげく、義経に連れられて関東にくだる。
生き恥をさらしつづけて、ようやくの帰路、近江国野洲の篠原であった。
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そして、さらには、宗盛の首は京都に運ばれ、都中を引き回され、
死んでも恥じをさらすことになる。
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『平家物語』を訪ねて 平宗盛 父子 篠原 最期