俊寛 鹿ヶ谷の陰謀

京都市左京区鹿ヶ谷大黒谷町

鹿ヶ谷山荘跡

「俊寛僧都忠誠之碑」

大文字山の南、鹿ヶ谷と呼ばれる地のかなり山中にこの碑が立つ。

鹿ヶ谷山荘跡碑という碑もあるが、えらいこの忠誠碑が目立つ。

碑の建立が1935年とあるから、俊寛の山荘はこの辺やったやろという理解にとどめたい。

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俊寛は後白河法皇の側近で、法勝寺の座主である。

安元三年(1177)、藤原成親、西光らの平氏打倒の陰謀に加わり、鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた。

それがこの地という。

しかし、密告により密議は露見、俊寛は藤原成経、平康頼とともに鬼界ヶ島(薩摩国)に流罪となった。

鬼界ヶ島で望郷の日々を送るが、成経と康頼は千本の卒塔婆を海に浮かべた。

それが安芸国厳島に漂着、心打たれた清盛は、徳子の安産祈願のために恩赦した。

しかし、許されたのは成経と康頼のふたり、俊寛は張本人として許されなかった。

ひとり残された俊寛は絶望の日々、翌年の治承三年(1179)、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪ね再会した。

有王が持参した娘の手紙を受け取った俊寛は死を決意し、食を断ち自害した。

有王は俊寛の灰骨を都に持ち帰った。

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私ごとであるが、山登りの仲間から京都・大文字山に登ろうと誘われた。1月の上旬、この日は昨夜降った雪が山道などに残り、寒い日だった。

京都・山科からの登山道を取り、大文字山の頂きに着いた。温かいコーヒーを沸かしたが、震えながらの弁当になった。

「大」の字に沿うように下山した。それは途中「俊寛山荘」に立ち寄るための道だった。

しかし、どこかで道を間違ってしまったのか、いきなり民家にある麓に着いてしまった。

仲間たちも疲れているだろうに、もう一度登ろうと励ましの声をかけてくれた。再び、山中に分け入り、ようやくにこの石碑に出会えた。

疲れ果てた私と、いっしょに登ってくれた仲間たちである。

 

ほんまにこんな深い山中に山荘があって、ここで密談してたんやろか。

みんな集まるだけでしんどいことやった。

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『平家物語』を訪ねて 俊寛 鹿ヶ谷の陰謀 山荘

万葉集を携えて

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