平重衡 重衡墓

京都市伏見区醍醐外山街道町

住宅地の中の交差点に、ぽつりと道標が立つ。「従三位平重衡卿墓」と記される。

すぐ近くの公園に重衡墓はある。

その説明板に、

この地は、平重衡の北方大納言佐局が平家没落後、身を寄せていたところと伝わる。

一ノ谷の合戦で捕えられ、鎌倉に送られた重衡は、南都大衆の訴えにより、南都焼き討ちの責を問われ、

文治元年(1185)、鎌倉から奈良に引き渡されたが、途中、この地に立ち寄って大納言佐局と別れを惜しんだ。

その情景は、付近の合場川、琴弾山の名とともに、平家物語に美しく語られている。

木津河原において首をはねられた重衡の遺骸はすぐさま引き取られ、火葬後、この地に埋葬されたといわれる。

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重衡は、南都の東大寺・興福寺を焼き討ちしたという大悪党にされた。

延暦寺・園城寺・興福寺、三寺の僧兵たちが六波羅に攻め入るといううわさが流れ、清盛は五男重衡を大将軍に奈良を攻めた。

「夜いくさになて、くらさはくらし。大将軍頭中将、般若寺の門の前にうたて、『火をいだせ』との給ふほどこそありけれ・・・」

平家の勢は、楯を割り松明にして在家に火をかけた。12月28日の夜、風は激しければたちまちに燃え広がり、

南都一帯、般若寺、東大寺大仏殿、興福寺の伽藍、ことごとく灰となった。

大仏も、「御髪は焼け落ちて大地にあり、御身はどろどろに溶けて山のごとし」となってしまった。

大将の重衡は大罪人の汚名を受けることになった。

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その重衡、一ノ谷の合戦で大敗をする。

その日、重衡の装束は、

濃い藍色に黄色の糸で群千鳥を鮮やかに刺繍した直垂に、紫裾濃の鎧を着て、童子鹿毛という名馬に乗っていた。

周りはみんな落ちて、主従ふたりになってしまった。乳母子の後藤盛長であるが、

重衡のその名馬が矢で傷つくと、盛長は自分の馬に鞭打って逃げてしまった。乳母兄弟に逃げられて失意の重衡、

腹を切ろうとしたところを、遂に生け捕りにされた。

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ところで、この平家都落ちのとき、重衡の女房、大納言佐局も同行していた。安徳天皇の乳母なのである。

夫が帰らぬとなった大納言佐局、気丈にも天皇に付き添い、壇ノ浦を迎える。

「大納言の佐殿、内侍所の御からうとをもて、海にいらんとし給ひけるが、袴のすそをふなばたにゐつけられ・・・」

三種の神器のひとつ、神鏡の入った唐櫃を抱いて、海に入ろうとしたけれど、袴の裾を船べりに射られて、

動けなくなって生け捕りになった。くやしいかな、夫婦ともに死にきれない。

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都に連れ戻された大納言佐局、姉の家に身を寄せることになった。

それが重衡墓のこの地、山科を過ぎて醍醐道の日野と『平家物語』は記す。そして現在も、山科を過ぎて醍醐道の日野である。

鎌倉から奈良に送られる重衡は、ここ日野に仮住する女房に最期の声を掛けたいという。

・・・そのくだりは、ぜひ物語原文でお読みいただきたい。涙がでます。・・・

『平家物語』巻第十一 「重衡被斬」

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大納言佐局は、夫重衡が斬首された後、すぐに遺骸を引き取るとともに、

奈良坂・般若寺山門に晒されていた夫の首を、東大寺大勧進の俊乗坊重源を通じて乞い受け、

この日野において荼毘に付し、骨を高野山に送るとともに、ここに墓を作ったとされる。

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その後、髪を落して尼となり、京都大原・寂光院の建礼門院のもとを訪ねて仕えた。

寂光院の近くには大納言佐局の墓がある。

 

前列 阿波内侍 大納言佐局 治部卿局 右京太夫 後 小侍従局

と記されている。

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『平家物語』を訪ねて 平重衡 重衡墓

万葉集を携えて

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