平重盛 邸宅跡

京都市東山区渋谷通東大路東入3丁目上馬町

正林寺

山門前に「小松谷御坊旧跡」の碑が立つ。

平清盛の嫡男平重盛は、正林寺のあるここ小松谷に住んでいた。だから小松殿ともいう

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『平家物語』は、重盛は若い頃は武勇猛々しく、武功も数多くあげたが、後年は親父の清盛と後白河法皇との対立の間に立ち、

息巻く親父を諫め、冷静沈着な判断をしたと記されている。温厚な誠実な人柄と物語は描く。

さらには政界から遠ざかり、熊野詣をし、清盛よりも先立った人である。42歳の若さで亡くなったが、平家の衰退を知らなくて幸せだったかもしれない。

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重盛は清盛の長男であるが、母の身分が低かったことで華やかな舞台を一歩離れて見ていたのかもしれない。

義兄弟の宗盛・知盛・重衡・建礼門院徳子は平時子の実子、名門の弟妹である。時子といえば、壇ノ浦で安徳天皇を抱いて入水した二位尼のことである。

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「親の恩を知る」ではないが、当時は多妻で、兄弟でも母が違った。母方の後ろ盾が出世を大きく左右した。

兄弟の間で「お前のかあちゃんは身分が低い」と云われるのはつらいなあ。

さらに、重盛の奥さんは藤原成親の妹、成親は「鹿ヶ谷事件」で清盛打倒を計画した首謀者、肩身はますます狭くなってしまった。

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小松谷というのは、都の中心から少し離れた東山の麓にある。平家一門が全盛を極めた六波羅からも離れている。

出自がこのような政界の中心から離れた場所を選んだのではないだろうか。

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重盛の嫡男維盛にもこの出自が影を落とす。

重盛の早世で一門からは孤立し、(大きな戦で2回も敗れたこともあるのだけれど)、平家の都落ちでは維盛だけが妻子を同行せず、

さらに屋島では戦線を離脱し、父の跡を追うように熊野に詣で、その地で入水して果てた。

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親父がいっしょでも母が違うということが、子や孫の人生を大きく変えてしまった。

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正林寺境内墓地の一画に、「阿弥陀経石」がある。

 

『平家物語』巻第三「金渡」の段に、

又おとゞ、「我朝にはいかなる大善根をしをいたり共、子孫あひついでとぶらはう事ありがたし。他国にいかなる善根をもして、後世を訪はればや」とて、安元の

此ほひ、鎮西より妙典といふ船頭をめしのぼせ、人を遙にのけて御対面あり。金を三千五百両めしよせて、「汝は大正直の者であんなれば、五百両をば汝にたぶ。

三千両を宋朝へ渡し、育王山へまいらせて、千両を僧にひき、二千両をば御門へまいらせ、田代を育王山へ申よせて、我後世とぶらはせよ」とぞの給ける。

妙典是を給はて、万里の煙浪を凌ぎつゝ、大宋国へぞ渡りける。育王山の方丈仏照禅師徳光にあひ奉り、此由申たりければ、隨喜感嘆して、千両を僧にひき、

二千両をば御門へまいらせ、おとゞの申されける旨を具に奏聞せられたりければ、御門大に感じおぼしめして、五百町の田代を育王山へぞよせられける。

されば日本の大臣平朝臣重盛公の後生善處と祈る事、いまに絶ずとぞ承る。

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重盛は、一族の後世安堵を願って、中国・宋国に黄金三千両を送った。田地を買って、育王山阿育王寺に寄進した。

だから育王山では今でも重盛の後世を弔うことが行われているという。

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鎌倉時代の建久九年(1198)、この寄進に対しての返礼があった。

龍興寺の石刻阿弥陀経による本文が刻まれた「阿弥陀経石」が九州に届いたのである。

しかし、重盛はすでになく、平家も滅亡していたため、宗像大社に置き留められた。今も宗像大社にあり重要文化財である。

江戸時代の延享三年(1746)、この経石を模刻して、正林寺に建立した。

これが正林寺の阿弥陀経石である。

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この模刻された阿弥陀経石が、京都にはもうひとつある。

知恩寺 左京区田中門前町

 

この経石に刻された経文は、日本に伝わっていた阿弥陀経と比べて21字多く、珍重されたという。

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『平家物語』を訪ねて 平重盛 正林寺 阿弥陀経石

万葉集を携えて

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