式子内親王

京都市上京区今出川通千本東入ル北側

『百人一首』に、

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする   式子内親王

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式子内親王は、後白河天皇の第三皇女で、母は藤原季成の女・成子。

久安五年(1149)の生れ、平治元年(1159)内親王宣下を受け、斎院に卜定。嘉応元年(1169)病により退下。

生年については諸説あるが、京大本『兵範記』断簡に含まれていた嘉応元年七月廿四日の式子内親王斎院退下条の裏書に、

「斎王高倉三位腹御年廿一」と記載されていることを受ける。

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斎院

『賀茂斎院記』には、

「後白河院之皇女也。母従三位成子。季成の女。平治元年卜定。号大炊御門斎院。能倭歌。出家法名承如法。」とあり、

式子内親王が怡子内親王につづいて第31代斎院に卜定されたのは平治元年(1159)であり、

次代の繕子内親王の卜定は嘉応元年(1169)となっている。

式子内親王の斎院退下は、『皇帝紀抄』によると、「嘉応元年七月二十六日、依病退下」であった。

ちなみに、嵯峨天皇皇女智子内親王を初代とする斎院は、式子内親王から四代後の後鳥羽院皇女礼子内親王を

第35代として廃絶されている。

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薨年は、『源家長日記』と『明月記』に「建仁元年(1201)」とある。

その式子内親王の墓と伝わる小塚がある。

京都市上京区今出川通千本東入ル北側に「伝・式子内親王墓」はある。

15〜16世紀の天皇・皇族の般舟院陵と並ぶように小さな塚であるが、これが式子内親王墓と伝わる。

般舟院陵は、秀吉の伏見城造営のために伏見から般舟院という寺の移転とともに移されたという。

だから、「伝・式子内親王墓」は、般舟院陵の移設以前からここにあったことになる。

正面には石仏がずらりと並ぶ。なんとなく雑然と並んでいて、この周囲にあった石仏が区画整備などで寄せ集められたのだろうか。

この小塚の頂きに石造の五輪塔が立つ。これが式子内親王の墓標なのであろう。

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父後白河天皇と母成子の同母兄弟姉妹は、

第一皇女亮子内親王(殷冨門院)、第二皇女好子内親王、第三皇女式子内親王、第一皇子仁和寺守覚法親王、第二皇子以仁王、第四皇女休子内親王。

どなたが姉で妹で兄で弟なのかよくわからないし、異なる生年説もあるから、通説の生年没年を記すと、

亮子(1147〜1216)、好子(1148〜1192)、式子(1149〜1201)、守覚(1150〜1202)、以仁王(1151〜1180)、休子(1157〜1171)、

すごい母ちゃんやね、毎年のようにお腹大きかったんやから。

姉妹もすごくって、

亮子は、後白河天皇の即位により伊勢神宮の斎宮に卜定、しかし後白河譲位により斎宮群行もなく退下、その後すぐに好子が斎宮卜定。

そして式子は、伊勢神宮の斎宮ではなく、賀茂社の斎院に卜定、

さらに、六条天皇即位で休子が斎宮に卜定、しかし譲位により休子も群行なく退下、しかも休子は15才で薨じた。

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守覚法親王は、『平家物語』の「経正都落」に、

寿永三年(1184)、平家都落ちのとき、平経正は仁和寺に立ち寄り、先代覚性法親王より拝領した琵琶「青山」を返上したとき、

別れを惜しみ守覚と歌を交わしている。

平経正は平経盛の長男、平敦盛の兄、清盛の甥になる。

参照  『平家物語』巻第七 「経正都落」

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以仁王は、治承四年平氏打倒の挙兵に出たが、清盛側に敗れ、京都・山城の地であえなく最期となる。

「以仁王墓」

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ところで、この地であるが、

宮内庁管理の「般舟院陵」であり、15〜16世紀の多くの天皇・皇族の方々が合葬されているが、

どこにも隣接の小塚が「式子内親王」の墓とは記されていない。

近くの民衆が守り続けた伝承の地なのであろう。

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『平家物語』を訪ねて 式子内親王

万葉集を携えて

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