崇徳院地蔵(人食い地蔵)

積善院準提堂

京都市左京区聖護院

聖護院門跡の東隣に、聖護院の塔頭寺院で鎌倉時代の開創と伝える積善院準提堂がある。

明治の初めにふたつに寺院が合併したそうだが、本尊準提観音像と不動明王像が祀られている。

 

本堂の裏手に崇徳院地蔵の祠がある。

保元の乱に敗れ、弟の後白河上皇や平清盛によって讃岐に流された崇徳上皇は、その地で都を呪いつつ没した。

その頃都では、大火が続き疫病がはやり、清盛も高熱の病で死んだ。

上皇の崇りと恐れた都人が慰霊のために地蔵尊を造った。

しかし、崇徳院の呪いを恐れるあまり、

「すとくいん」が、いつしか「ひとくいん」となり、さらには「ひとくい」と呼ばれるようになってしまった。

「崇徳院地蔵」が「人食い地蔵」と呼ばれた。

この地蔵は、もともと「聖護院の森」におられた。

昔の聖護院の森は広く、現在の聖護院門跡から西に鴨川辺りまであったという。

その森に、明治になって京都大学付属病院が建設され、地蔵はここ積善院準提堂に移された。

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万葉集を携えて

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