平忠盛 得長寿院

京都市左京区岡崎

得長寿院跡

京都市左京区岡崎の東大路通と疎水とが交差するところに碑が立つ。

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平清盛の父、忠盛は天承二年(1132)、鳥羽院の勅願により得長寿院を造営寄進した。

『平家物語』巻第一「殿上闇討」の段に、

「忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願得長寿院を造進して、三十三間の御堂をたて、一千一躰の御仏をすへ奉る。」

とあるが、これは現今の蓮華王院三十三間堂ではない。

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『平家物語』巻十二「大地震」の段に、

同七月九日の午刻ばかりに、大地おびたゝしくうごいて良久し。赤縣のうち、白河のほとり、六勝寺皆やぶれくづる。九重の塔もうへ六重ふりおとす。

得長寿院も三十三間の御堂を十七間までふりたうす。皇居をはじめて人々の家々、すべて在々所々の神社仏閣、あやしの民屋、さながらやぶれくづる。

くづるゝ音はいかづちのごとく、あがる塵は煙のごとし。

とある。これは文治元年(1185)の大地震で、このとき得長寿院三十三間堂もほとんどが崩壊したようである。

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平清盛の父、平忠盛は備前守のとき鳥羽院の勅願寺得長寿院を造営寄進し、千一躰仏を奉った。

このことで但馬国の国守に任じられ、殿上人となり昇殿を許された。忠盛36歳のときである。

しかし、武士である忠盛が殿上人になったことを憎んだ公卿たちが闇討ちを企てた。これを知った忠盛は、平氏は武家の誉れと、

銀箔の木刀を持って参内し、公卿たちを脅し、暗殺を防いだ。鳥羽上皇はこれを誉めた。

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『平家物語』の間違い  史実は、

得長壽院の供養は、天承二年(1132)ではなく、翌年の長承元年らしい。だから忠盛は37才のこと。

また、忠盛が造営の功により但馬守に任じられたというのも誤りで、供養に先立って長承元年正月、備前守の重任(再任)を許された。

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忠盛は、諸国の受領を歴任し、また、日宋貿易にも従事して、莫大な富を貯えた。

その武力と財力が、後の平氏政権の基礎となったのである。

忠盛の正室は藤原宗子、源頼朝の助命をしたあの池禅尼である。

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なお、蓮華王院三十三間堂は、平清盛が長寛二年(1164)後白河上皇の院政院「法住寺殿」に造営したものである。

80年後火災に遭い、文永三年(1266)に再建された。

現在の三十三間堂

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『平家物語』を訪ねて 平忠盛 得長寿院

万葉集を携えて

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