平忠度 長等の山桜

滋賀県大津市三井寺町

一の谷合戦、須磨の海岸から沖にいる味方の船に逃げようとする平家、執拗に追討する源氏。

忠度は岡部忠純に追いつかれ、首を討たれた。

忠純は「名のらせ給へと申す」が、「是はみかたぞ」といって振向いたかぶとの奥には「かねぐろ也」。

歯黒にした平家の公達であった。

首を討ち取り、箙えびらに結ばれた文を見つけた。「旅宿の花」と題した一首の歌と忠度の名があった。

行くれて木の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし

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戦の心構えがちがう。源氏はただ戦うこと、敵を倒すことに徹した荒武者揃いの軍事集団、

一方平家はこのように戦場でも歌を詠み、笛を吹き、琵琶を弾き、優雅を求めるお公家さんの軍隊だ。自ずと結果に優劣ができよう。

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それより以前、平家都落ちの朝、忠度は藤原俊成を訪ねていた。

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そのときの忠度は、一巻の自らの歌集を歌の師である藤原俊成に手渡していた。このシーンは涙を誘う。すでにこのとき覚悟の旅立ちであった。

俊成が勅撰の和歌集を編集しようとしていることを聞いていた忠度は、

「世しづまり候なば、勅撰の御沙汰候はんずらん。是に候巻物のうちに、さりぬべきもの候はゞ、

一首なり共御恩を蒙て、草の陰にてもうれしと存候はゞ、遠き御まもりでこそ候はんずれ」

たとえ一首でもいいから歌を撰んでほしいという。そして、

「今は西海の浪の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、浮世におもひをく事候はず。さらばいとま申て」

西に向かって去っていった。俊成は涙が抑え切れなかったとある。

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世が鎮まって、俊成は『千載集』を編集したが、その中に「読人しらず」として忠度の歌一首を撰んだ。

さゞなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらか

「其身朝敵となりにし上は、子細にをよばずといひながら、うらめしかりし事共也。」

  

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さざ浪やしがのみやこはあれにしをむかしながらの山さくらかな

むかしながらの「ながら」は、近江の歌枕「長等」、長等山を掛けているのであるが、

後世、この長等に琵琶湖疏水が造られ、今もなお桜の名所となっている。

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長等山山上に歌碑があり、

さざ浪やしがのみやこはあれにしをむかしながらの山さくらかな

己申夏日 従二位藤原朝臣正風書

と刻む。己申は明治41年のこと。裏面には「大正三年六月建設 大津市」とある。

揮毫は、明治天皇の御歌所所長高崎正風のこと。

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長等神社境内には、模刻した歌碑がある。

大津市錦織2丁目 大津京シンボル公園にも歌碑が。

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『平家物語』を訪ねて 平忠度 長等 山ざくら

万葉集を携えて

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