平康頼 双林寺
京都市東山区下河原鷲尾町
『平家物語』巻第三「少将都帰」に、
康頼入道は、東山双林寺にわが山荘のありければ、それに落つゐて、先おもひつづけけり。
ふる里の軒のいたまに苔むしておもひしほどはもらぬ月かな
やがてそこに籠居して、うかりし昔を思ひつづけ、宝物集といふ物語を書けるとぞ聞えし。
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双林寺
双林寺は、霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量寿院というのが正式な名称らしい。
かつては大寺であったが、その大部分が円山公園になってしまった。
今はこの本堂と、少し離れて西行堂だけになってしまった。
平康頼の山荘はこの本堂の近くにあったものと思われる。
本堂そばに、3基の供養塔が並ぶ。
左から、頓阿法師、西行法師、平康頼である。
平康頼は、平保盛(平清盛の甥)の家人となり、平の姓を許された。保盛は尾張の国司に任じられ、康頼を目代にして派遣した。
当時、尾張国知多郡野間の荘には源義朝の墓があったが、だれも顧みる者もなく、荒れるに任せていた。
康頼はこの敵将の墓を修理し、堂を建て、僧を置き、その保護のために水田を寄進もした。
このうわさが都にも聞こえ、後白河上皇にも届いた。
敵将の墓を保護したとして、清盛はじめ平家一門の誉れと評判になり、後白河上皇の近習に取り立てられた。
上皇から特に目をかけられ、検非違使、左衛門大尉に任じられ、平判官と称した。
安元三年(1177)、鹿ヶ谷の山荘で、藤原成親、西光、俊寛らの平家打倒の密議に参加、多田行綱の密告で策謀が漏れ、
捕縛されて、俊寛、藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島に流された。
望郷の歌を記した卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、清盛は心打たれ赦免した。成経と康頼は都にもどるが、俊寛は許されなかった。
このとき、康頼はここ双林寺の山荘を住まいとして、仏教説話集『宝物集』を著した。
平家滅亡後、文治二年(1186)源頼朝は、父義朝の墓を弔った康頼を、阿波国の保司(地方行政官)に任じたという。
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供養塔左の頓阿法師は、南北朝時代の和歌四天王のひとり。西行法師を慕い、この地で草庵を結ぶ。自撰和歌集『草庵集』がある。
跡しめて 見ぬ世の春を しのぶかな その如月の 花の下かげ
また、『続草庵集』巻第四に、吉田兼好と頓阿法師のおもしろい歌のやりとりが載る。
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世中しづかならざりし比、兼好が本より
よねたまへぜにもほし、といふ事をくつかぶりにおきて
よもすずし ねざめのかりほ た枕も ま袖も秋に へだてなきかぜ
返し よねはなし、ぜにすこし
よるもうし ねたくわがせこ はてはこず なほざりにだに しばしとひませ
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沓冠(くつかぶり)といって、和歌や俳諧の折句のひとつで、ある語句を各句の初めと終りとに一音ずつよみ込むもの。
よもすずし ねざめのかりほ た枕も ま袖も秋に へだてなきかぜ
よるもうし ねたくわがせこ はてはこず なほざりにだに しばしとひませ
兼好が、よねたまへ(米給へ)ぜにもほし(銭も欲し)、頓阿は、よねはなし(米はなし)ぜにすこし(銭少し)
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供養塔真ん中の西行法師は、出家の翌年永治元年(1141)、ここ双林寺の塔頭である蔡華園院にしばらく住んだようである。
『山家集』の上・冬に、
野辺寒草といふことを、双林寺にてよみけるに
さまざまに 花咲きけりと 見し野辺の 同じ色にも 霜枯れにける
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西行堂
双林寺のすぐ近くに西行堂はある。蔡華園院の跡地に建てられたものという。
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西行堂のさらに奥には、
曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺跡之塔
がある。
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『平家物語』を訪ねて 平康頼 双林寺