木曽義仲 義仲寺
大津市馬場1丁目
「義仲寺案内」より
治承四年(1180)、木曽義仲は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永二年(1183)五月、北陸路に平氏の大軍を打ち破り、七月京都に入った。
翌寿永三年正月二十日、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にした。享年31。
その後、年あって、見目麗しい尼僧が、この墓所のほとりに草庵を結び、日々の供養ねんごろであった。
里人がいぶかって問うと、「われは名も無き女性」と答えるのみである。この尼こそ、義仲の側室巴御前の後身であった。
尼の没後、この庵は「無名庵」ととなえられ、あるいは巴寺ともいい、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれた。
時代は移り、貞享年間(1684〜8)のころ、芭蕉翁はしきりにこの義仲寺を訪れ宿舎とした。
そして、元禄七年(1694)十月十二日、芭蕉翁は大坂の旅窓で逝去したが、
「骸は木曽塚に送るべし」との遺言によって、遺骸を当寺に運び、現在地に墓を建てた。享年51。
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義仲墓
土壇の上に宝篋印塔をすえる。芭蕉翁は木曽塚ととなえた。「義仲忌」は、毎年一月の第三日曜日に営む。
義仲の 寝覚めの山か 月悲し 芭蕉
木曽の情 雪や生ぬく 春の草 芭蕉
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巴塚
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『平家物語』巻九「木曽最期」に、
木曽殿は信濃より、ともゑ・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあて、都にとゞまりぬ。
中にもともゑはいろしろく髮ながく、容顔まことにすぐれたり。
ありがたきつよ弓、せい兵、馬のうへ、かちだち、うち物もては鬼にも神にもあはふどいふ一人当千の兵也。
究竟のあら馬のり、悪所おとし、いくさといへば、さねよき鎧きせ、おほ太刀・つよ弓もたせて、まづ一方の大将にはむけられけり。
度々の高名、肩をならぶるものなし。されば今度も、おほくのものどもおちゆきうたれける中に、七騎が内までともゑはうたれざりけり。
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巴は「一人当千の兵なり」という。しかも、色白く、髪長く、めちゃきれいという。都から近江・粟津まで落ちのびた七騎のひとりという。
義仲は巴にいう。
「おのれはとうとう、おんななれば、いづちへもゆけ。我は打死せんと思ふなり。
もし人手にかゝらば自害をせんずれば、木曽殿の最後のいくさに、女をぐせられたりけりなどいはれん事もしかるべからず」
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おれはここで死ぬ。しかし巴はおんなや、消え失せろ。最後のいくさに、女を連れていたなんていわれたくはない。
巴へのやさしいいたわりの声をかけた。
しかし巴は去ろうとしない。そこへたまたま敵の一群がやってきた。大力持ちで聞こえた武者だ。巴は、
「よし、最後にひと暴れして、そして私は去ろう」と、
敵30騎ばかりの中に駆け入り、その大力武者に馬を並べ、むずっと引き落とし、その首をねじ斬ってしまった。すごい女や。きれいやけど。
そして、静かに武具を脱ぎ捨てて、東国へ去っていった。
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義仲寺の由緒では、
後年、巴はふたたびこの地に戻り、尼僧となって義仲を弔ったということになる。
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山吹塚
義仲の側女山吹御前の塚。
もとは別の所にあったが、昭和四十八年に当寺に移された。
病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと大津まで来た。義仲の戦死の報を聞き、悲嘆のあまり自害したとも捕らわれたとも云われる。
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芭蕉翁墓
木曽殿と背中合わせの寒さかな 又玄
遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人十人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、十三日午後義仲寺に入る。
十四日葬儀、深夜ここに埋葬した。門人ら焼香者八十人、会葬者三百余人に及んだ。其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。
芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の季節に合わせて、毎年十一月の第二土曜日に営む。
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『平家物語』を訪ねて 木曽義仲 義仲寺 巴 山吹 芭蕉