帯中日子天皇(足仲彦天皇) 仲哀天皇

山口・福岡

豊浦宮・香椎宮

山口県下関市の忌宮神社に立つ「豊浦宮址」碑

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『古事記』に記される仲哀天皇は、ほんまに可哀そうで、ほとんど神功皇后のことばかり。

穴門の豊浦宮と筑紫の香椎宮に坐して天下を治めた。

大中津比売命を娶して、生みませる御子、香坂王。忍熊王。二柱。

又息長帶比売命、是は大后なり。娶して、生みませる御子、品夜和気命。次に大鞆和気命。亦の名は品陀和気命。二柱。

以上のご家族紹介と、あとはお亡くなりになる事由である。

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香椎宮でのこと。

天皇は、熊襲征伐にやって来たのに、神が皇后にのり移り、

「熊襲はやめて、西の方に金銀いっぱいの国がある。その国をうばってこい」という。

天皇は、「高い所に登って見たけど、そんな国見えん。海ばっかりや。」「この神は、にせものやで」。

神さまのお告げを聞くとき、当時は男が琴を弾いて神をお迎えした。

だから、天皇はいやいや弾いていた。神さま、えらい怒って、

「お前は天下を治める器じゃない。もうこの世にいらん」

横にいた建内宿禰(武内宿禰)が、

「恐れ多いことや。天皇、琴をちゃんと弾いてください、お願いしますわ」

それでもいやいや琴を弾く天皇、しばらくすると、琴の音が聞こえなくなった。

明かりをつけてみると、すでに天皇はお亡くなりになっていた。

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あとはずうっと神功皇后のことが記されていて、最後に、

この天皇、御年52歳で「崩りましき」、「御陵は、河内の惠賀の長江に在り」とある。

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忌宮神社 下関市長府町

仲哀天皇の豊浦宮跡とされ、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇を祭神と祀る。

写真・鳥居向うに見える多くの長い竹棹は、8月に催される「数方庭祭」の飾り竹。

数方庭祭すほうていのいわれ

熊襲を煽動して豊浦宮に攻め寄せた新羅の塵輪じんりんを仲哀天皇が射倒した。

天皇軍は歓喜のあまり矛をかざし、旗を振って塵輪の屍の周りを踊り狂ったという。それがこの祭の起源といわれる。

また、境内には「蚕種渡来之地」という碑がある。

「1800余年前、中国より秦の始皇十一世の子孫功満王がここ豊浦宮に滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)献上し、我国養蚕の始まり」と伝える。

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『日本書紀』の仲哀天皇は、もう少し詳しく記されていて、

天皇は豊浦宮に来る前、角鹿(敦賀)の笥飯宮(気比神宮)にいたとある。皇后もいっしょに。

福井県敦賀市曙町に、気比神宮がある。

社記には、神功皇后が三韓出兵の成功を気比大神に祈り、海神を祀るようにと神託があった。

その後、穴門に向う途次、干・満の珠を海神より得たといい、安曇連に命じて気比大神を祀らせた。

ところが、天皇は、突然皇后を気比に留めたまま、ひとり紀伊国に行き、徳勒津宮に入った。

このとき、熊襲が叛いたという情報が入り、急きょ熊襲を討とうと穴門(豊浦宮)に向った。

皇后にも穴門に向うように連絡をいれ、豊浦宮で会おうと云った。

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福井県敦賀市常宮に、常宮神社がある。

神社由緒に、

天皇は熊襲の変をお聞きになり、紀州へ巡行され、陸路山陽道を通過、山口県に向われた。

皇后はしばらくこの常宮に留まり、六月になって海路日本海を渡り、豊浦宮に天皇と再会された。

この由緒を以て、ここに神功皇后、仲哀天皇、応神天皇を祀る。

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海辺にあるこの神社、この前の海から神功皇后は船出した。

仲哀天皇と神功皇后、ふたりは豊浦宮で落ち合い、いよいよ熊襲征伐に九州に上陸した。

「橿日宮に入る」とある。香椎宮である。

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福岡市東区香椎に、香椎宮がある。

神功皇后に神がのり移る話は『日本書紀』も同じで、「西に金銀の国あり」と神は云う。

「海のみありて国なし」と、仲哀天皇は神を怒らすが、そのときには亡くならない。

神は、この天皇はだめ、今皇后のお腹にいる御子、彼が次の日本を背負うでしょうという。

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香椎宮には、


「仲哀天皇大本営御舊蹟碑」

「沙庭斎場」

「神木香椎」

戦前の皇国史観そのもののような大本営碑だ。

この香椎宮の祭神は、仲哀天皇と神功皇后だから、次のような由緒を記す。

仲哀天皇の進取革新内外政策は、開闢以来の大偉業なりし為、常に沙庭を樹て、神教を乞請された聖地である。

沙庭が国史に現われたのは此地が最初である。

さらに、

仲哀天皇の御遺業を完遂せんとし給いし神功皇后は、天皇の喪を秘し、天皇の御棺をこの椎木に立て掛け、

恰も天皇親臨の御前会議を開かれた。

このとき、御棺より薫香漂いたるにより、香椎の名起るとの地名伝説もあり。

また、境内には綾杉がある。

香椎宮畧縁起に、

皇后、則軍をおかへし、同年十二月四日筑前につかせ給ひ、姪浜袙浜よりあがらせ給ふ。御船は名島へつきけるとぞ。

皇后、香椎の行宮におひて、仲哀天皇の御廟を建給ふ。

皇后、三種の兵器をうづめおさめて、其うへに綾威の鎧の袖に挟み給ひし杉の枝を、御手づから土にささせ給ひ、

誓ひて曰く、「朕、とこしへに異國を降伏し、本朝を鎮護べし。願は此杉かかることなかれ」とのたまふ。靈杉根をかたふして長盛す。

綾杉のそばに、『新古今和歌集』に載る和歌の歌碑がある。

ちはやぶる 香椎の宮の あや杉は 神のみそぎに たてるなりけり  読人しらず

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仲哀天皇は、神のお告げを聞かず、初期の目的通り熊襲を攻めたが、勝てなかった。

神のお告げから半年後に亡くなったという。熊襲の矢が当たり亡くなったともいう。

神功皇后と武内宿禰は、

今国中に喪を発表すると人心が乱れるからと、こっそり豊浦宮で葬儀をおこなった。无火殯斂ほなしあがりという。

そのときは、新羅の役があるので葬らなかったという。

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神功皇后二年、河内国長野陵に葬りまつる。

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藤井寺市藤井寺4丁目に、仲哀天皇恵我長野西陵(岡ミサンザイ古墳)がある。

夏8月、堀に咲く蓮の花が美しい。

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『古事記』

帶中日子天皇、穴門の豊浦宮、及筑紫の訶志比宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、大江王の女、大中津比売命を娶して、生みませる御子、香坂王。忍熊王。二柱。又息長帶比売命、是は大后なり。娶して、生みませる御子、品夜和気命。次に大鞆和気命。亦の名は品陀和気命。二柱。此の太子の御名、大鞆和気命と負はせる所以は、初めて生れましし時、鞆の如き宍、御腕に生りき。故、其の御名に著けき。是を以ちて腹に坐して国に中りたまひしを知りぬ。此の御世に、淡道の屯家を定めたまひき。
其の大后息長帶日売命は、当時神を帰せたまひき。故、天皇筑紫の訶志比宮に坐しまして、熊曽国を撃たむとしたまひし時、天皇御琴を控かして、建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。是に大后神を帰せたまひて、言教え覚し詔たまひしく、「西の方に国有り。金銀を本と為て、目の炎耀く種種の珍し宝、多に其の国に在り。吾今其の国を帰せ賜はむ。」とのりたまひき。爾に天皇答へて白したまひしく、「高き地に登りて西の方を見れば、国土は見えず。唯大海のみ有り。」とのりたまひて、詐を為す神と謂ひて、御琴を押し退けて控きたまはず、默して坐しき。爾に其の神、大く忿りて詔りたまひしく、「凡そ?の天の下は、汝の知らすべき国に非ず。汝は一道に向ひたまへ。」とのりたまひき。是に建内宿禰大臣白しけらく、「恐し、我が天皇、猶其の大御琴阿蘇婆勢。」とまをしき。爾に稍に其の御琴を取り依せて、那麻那摩邇控き坐しき。故、幾久もあらずて、御琴の音聞えざりき。即ち火を挙げて見れば、既に崩りたまひぬ。爾に驚き懼ぢて、殯宮に坐せて、更に国の大奴佐を取りて、生剥、逆剥、阿離、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鶏婚の罪の類を種種求ぎて、国の大祓を為て、亦建内宿禰沙庭に居て、神の命を請ひき。是に教へ覚したまふ状、具さに先の日の如くにして、「凡そ此の国は、汝命の御腹に坐す御子の知らさむ国なり。」とさとしたまひき。爾に建内宿禰、「恐し、我が大神、其の神の腹に坐す御子は、何れの御子ぞや。」と白せば、「男子ぞ。」と答へて詔りたまひき。爾に具さに請ひけらく、「今如此言教へたまふ大神は、其の御名を知らまく欲し。」とこへば、即ち答へて詔りたまひしく、「是は天照大神の御心ぞ。亦底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神ぞ。此の時に其の三柱の大神の御名は顕れき。今寔に其の国を求めむと思ほさば、天神地祇、亦山神及河海の諸の神に、悉に幣帛を奉り、我が御魂を船の上に坐せて、真木の灰を瓠に納れ、亦箸及比羅伝を多に作りて、皆皆大海に散らし浮かべて度りますべし。」とのりたまひき。

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『日本書紀』

足仲彦天皇は、日本武尊の第二子なり。母の皇后をば両道入姫命と曰す。活目入彦五十狭茅天皇の女なり。天皇、容姿端正し。身長十尺。稚足彦天皇の四十八年に、立ちて太子と為りたまふ。時に年三十一。稚足彦天皇、男無。故、立てて嗣としたまふ。
六十年に、天皇崩りましぬ。明年の秋九月の壬辰の朔丁酉に、倭国の狭城盾列陵に葬りまつる。
元年の春正月の庚寅の朔庚子に、太子、即天皇位す。
秋九月の丙戌の朔に、母の皇后を尊びて皇太后と曰す。
冬十一月の乙酉の朔に、群臣に詔して曰はく、「朕、未だ弱冠に逮ばずして、父の王、既に崩りましぬ。乃ち神霊、白鳥と化りて天に上ります。仰望びたてまつる情、一日も息むこと勿し。是を以て、冀はくは白鳥を獲て、陵域の池に養はむ。因りて、其の鳥を覩つつ、顧情を慰めむと欲ふ」とのたまふ。則ち諸国に令して、白鳥を貢らしむ。
閏十一月の乙卯の朔戊午に、越国、白鳥四隻を貢る。是に、鳥を送る使人、菟道河の辺に宿る。時に、蘆髮蒲見別王、其の白鳥を視て、問ひて曰はく、「何處将て去く白鳥ぞ」とのたまふ。越人答へて曰さく、「天皇、父の王を恋ひたまはして、養ひ狎けむとしたまふ。故、貢る」とまうす。則ち蒲見別王、越人に謂りて曰はく、「白鳥なりと雖も、焼かば黒鳥に為るべし」とのたまふ。仍りて強に白鳥を奪ひて、将て去ぬ。爰に越人、参赴て請す。天皇、是に、蒲見別王の、先王に礼无きことを悪みたまひて、乃ち兵卒を遣して誅す。蒲見別王
は、天皇の異母弟なり。時人の曰はく、「父は是天なり。兄亦君なり。其れ天を慢り君に違ひなば、何ぞ誅を免るること得む」といふ。是年、太歳壬申。
二年の春正月の甲寅の朔甲子に、気長足姫尊を立てて皇后とす。是より先に、叔父彦人大兄が女大中姫を娶りて妃としたまふ。?坂皇子・忍熊皇子を生む。次に来熊田造が祖大酒主が女弟媛を娶て、誉屋別皇子を生む。
二月の癸未の朔戊子に、角鹿に幸す。即ち行宮を興てて居します。是を笥飯宮と謂す。即月に、淡路屯倉を定む。三月の癸丑の朔丁卯に、天皇、南国を巡狩す。是に、皇后及び百寮を留めたまひて、駕に従へる二三の卿大夫及び官人数百して、軽く行す。紀伊国に至りまして、徳勒津宮に居します。是の時に当りて、熊襲、叛きて朝貢らず。天皇、是に、熊襲国を討たむとす。則ち徳勒津より発ちて、浮海よりして穴門に幸す。即日に、使を角鹿に遣したまひて、皇后に勅して曰はく、「便ち其の津より発ちたまひて、穴門に逢ひたまへ」とのたまふ。
夏六月の辛巳の朔庚寅に、天皇、豊浦津に泊ります。且、皇后、角鹿より発ちて行して、渟田門に致りて、船上に食す。時に、海?魚、多に船の傍に聚れり。皇后、酒を以て?魚に灑きたまふ。?魚、即ち酔ひて浮びぬ。時に、海人、多に其の魚を獲て歓びて曰はく、「聖王の所賞ふ魚なり」といふ。故、其の處の魚、六月に至りて、常に傾浮ふこと酔へるが如し。其れ是の縁なり。
秋七月の辛亥の朔乙卯に、皇后、豊浦津に泊りたまふ。是の日に、皇后、如意珠を海中に得たまふ。
九月に、宮室を穴門に興てて居します。是を穴門豊浦宮と謂す。
八年の春正月の己卯の朔壬午に、筑紫に幸す。時に、岡縣主の祖熊鰐、天皇の車駕を聞りて、豫め、五百枝の賢木を抜じ取りて、九尋の船の舳に立てて、上枝には白銅鏡を掛け、中枝には十握剣を掛け、下枝には八尺瓊を掛けて、周芳の沙麼の浦に参迎ふ。魚塩の地を獻る。因りて奏して言さく、「穴門より向津野大済に至るまでを東門とし、名篭屋大済を以ては西門とす。沒利嶋・阿閉嶋を限りて御筥とし、柴嶋を割りて御■なへ、とす。逆見海を以て塩地とす」とまうす。既にして海路を導きつかへまつる。山鹿岬より廻りて岡浦に入ります。
水門に到るに、御船、進くこと得ず。則ち熊鰐に問ひて曰はく、「朕聞く、汝熊鰐は、明き心有りて参来り。何ぞ船の進かざる」とのたまふ。熊鰐奏して曰さく、「御船進くこと得ざる所以は、臣が罪に非ず。是の浦の口に、男女の二神有す。男神をば大倉主と曰す。女神をば菟夫羅媛と曰す。必に是の神の心か」とまうす。天皇、則ち祷祈みたまひて、挟杪者倭国の菟田の人伊賀彦を以て祝として祭らしめたまふ。則ち船進くこと得つ。皇后、別船にめして、洞海より入りたまふ。潮涸て進くこと得ず。時に熊鰐、更還りて、洞より皇后を迎へ奉る。則ち御船の進かざることを見て、惶ぢ懼りて、忽に魚沼・鳥池を作りて、悉に魚鳥を聚む。皇后、是の魚鳥の遊を看して、忿の心、稍に解けぬ。潮の満つるに及びて、即ち岡津に泊りたまふ。又、筑紫の伊覩縣主の祖五十迹手、天皇の行すを聞りて、五百枝の賢木を抜じ取りて、船の舳艫に立てて、上枝には八尺瓊を掛け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門の引嶋に参迎へて獻る。因りて奏して言さく、「臣、敢へて是の物を獻る所以は、天皇、八尺瓊の勾れるが如くにして、曲妙に御宇せ、且、白銅鏡の如くにして、分明に山川海原を看行せ、乃ち是の十握剣を提げて、天下を平けたまへ、となり」とまうす。天皇、即ち五十迹手を美めたまひて、「伊蘇子」と曰ふ。故、時人、五十迹手が本土を号けて、伊蘇国と曰ふ。今、伊覩と謂ふは訛れるなり。己亥に、儺縣に到りまして、因りて橿日宮に居します。
秋九月の乙亥の朔己卯に、群臣に詔して、熊襲を討たむことを議らしめたまふ。時に、神有して、皇后に託りて誨へまつりて曰はく、「天皇、何ぞ熊襲の服はざることを憂へたまふ。是、膂宍の空国ぞ。豈、兵を挙げて伐つに足らむや。?の国に愈りて宝有る国、譬へば處女の■まよびきの如くにして、津に向へる国有り。眼炎く金・銀・彩色、多に其の国に在り。是を栲衾新羅国と謂ふ。若し能く吾を祭りたまはば、曽て刄に血らずして、其の国必ず自づから服ひなむ。復、熊襲も為服ひなむ。其の祭りたまはむには、天皇の御船、及び穴門直踐立の獻れる水田、名けて大田といふ、是等の物を以て幣ひたまへ」とのたまふ。天皇、神の言を聞しめして、疑の情有します。便ち高き岳に登りて、遥に大海を望るに、曠遠くして国も見えず。是に、天皇、神に対へまつりて曰はく、「朕、周望すに、海のみ有りて国無し。豈大虚に国有らめや。誰ぞの神ぞ徒に朕を誘くや。復、我が皇祖諸天皇等、尽に神祇を祭りたまふ。豈、遺れる神有さむや」とのたまふ。時に、神亦皇后に託りて曰はく、「天津水影の如く、押し伏せて我が見る国を、何ぞ国無しと謂ひて、我が言を誹謗りたまふ。其れ汝王、如此言ひて、遂に信たまはずは、汝、其の国を得たまはじ。唯し、今、皇后始めて有胎みませり。其の子獲たまふこと有らむ」とのたまふ。然るに、天皇、猶し信けたまはずして、強に熊襲を撃ちたまふ。得勝ちたまはずして還ります。
九年の春二月の癸卯の朔丁未に、天皇、忽に痛身みたまふこと有りて、明日に、崩りましぬ。時に、年五十二。即ち知りぬ、神の言を用ゐたまはずして、早く崩りましぬることを。一に云はく、天皇、親ら熊襲を伐ちたまひて、賊の矢に中りて崩りましぬといふ。是に、皇后及び大臣武内宿禰、天皇の喪を匿めて、天下に知らしめず。則ち皇后、大臣及び中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連に詔して曰はく、「今、天下、未だ天皇の崩りますことを知らず。若し百姓知らば、懈怠有らむか」とのたまふ。則ち四の大夫に命せて、百寮を領ゐて、宮中を守らしむ。竊に天皇の屍を收めて、武内宿禰に付けて、海路より穴門に遷る。而して豊浦宮に殯して、无火殯斂をす。甲子に、大臣武内宿禰、穴門より還りて、皇后に復奏す。
是年、新羅の役に由りて、天皇を葬りまつること得ず。

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