大国主神 国譲り 島根県出雲市大社町杵築東 出雲大社(杵築大社) 『古事記』 国譲り 故、更に且還り来て、其の大国主神に問ひたまひしく、「汝が子等、事代主神、建御名方神の二はしらの神は、天つ神の御子の命の随に違はじと白しぬ。故、汝が心は奈何に。」ととひたまひき。爾に答へ白ししく、「僕が子等、二はしらの神の白す随に、僕は違はじ。此の葦原中国は、命の随に既に獻らむ。唯僕が住所をば、天つ神の御子の天津日継知らしめす登陀流天の御巣如して、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原に氷木多迦斯理て治め賜はば、僕は百足らず八十手に隠りて侍ひなむ。亦僕が子等、百八十神は、即ち八重事代主神、神の御尾前と為りて仕へ奉らば、違ふ神は非じ。」とまをしき。如此白して、出雲国の多芸志の小浜に、天の御舍を造りて、水戸神の孫、櫛八玉神、膳夫と為りて、天の御饗を獻りし時に、祷き白して、櫛八玉神、鵜に化りて、海の底に入り、底の波邇を咋ひ出でて、天の八十毘良迦を作りて、海布の柄を鎌りて、燧臼に作り、海蓴の柄を以ちて燧杵に作りて、火を鑽り出でて云ひしく、 是の我が燧れる火は、高天の原には、神産巣日御祖命の、登陀流天の新巣の凝烟の、八拳垂る摩弖焼き挙げ、地の下は、底津石根に焼き凝らして、栲縄の、千尋縄打ち延へ、釣為し海人の、口大の、尾翼鱸、佐和佐和邇、控き依せ騰げて、打竹の、登遠遠登遠遠邇、天の真魚咋、獻る。 といひき。故、建御雷神、返り参上りて、葦原中国を言向け和平しつる状を、復奏したまひき。 ・・・・・ 「おやじさん、おたくの息子ふたりもええちゅうたし、ほな、この土地もらうで。ええな。この書類に判くれるか?」ということで、国譲りは終った。 大国組のおやじとして、「最後にお願いや、わしも長いことこのシマ守ってきたゆうプライドもある。 今、多芸志に計画しとるマンション、あれだけはわしに置いといてえな。頼むわ。わしももう歳やし、あそこでゆっくりしたいんや。 海で獲れる鱸の刺身みたいなええもん喰って・・・。そや、わしもひとりになったし、調理人ひとり置いとってえな。」 たけみかづちは帰ってきて、「えらい手こずりましたけど、ようやく判くれましたわ。マンション1軒ねだられましたけど・・・。」、 天照姉御に報告をした。 ・・・・・・・ 出雲大社境内から、巨木三本を束ねて一本とした直径約3bの巨大柱が出土した。 本殿の高さ十六丈(約48b)とする同社の伝承を裏付け、古代日本に仏寺以外の高層建築が実在したことを示す。 現代のビル十四階建てに相当し、現存する世界一の木造建築物(塔を除く)である東大寺大仏殿(約46b)を越える。 古い時代の出雲大社が高かったことは多くの文献が指摘。 ある中世の文献は「上古三十二丈、中古十六丈、次に八丈、今は四丈五尺なり」と記す。 十世紀に書かれた平安貴族の教科書「口遊(くちずさみ)」では、当時十五丈あったとされる大仏殿をしのぎ日本一高いと紹介されている。 ・・・・・・・ 神在月 出雲地方では、旧暦十月を神在月という。出雲に神さまが集るから、だからその他の地方は神無月。 ・・・・・ 佐田神社 松江市鹿島町 万九千神社 島根県簸川郡斐川町併川神立 万九千神社の由緒に、 出雲では、全国八百萬神が毎年旧暦十月十一日から七日間、出雲大社へ神集し神在祭が執行される。引き続きて佐太神社において神在祭が執行され、最後に万九千神社に神集し幽議をし、二十六日には当社より諸国の神社へ帰国の途につく。そこで当地方では、この日を「神等去出(からさで゙)」ともいい、当社の鎮座地が神立という地名であることもこれに由来するといわれる。 古来、旧暦十月を出雲国では神在月と称し、当社においても十七日から二十六日までを神在といい、日供を献じ、国家貞祥、宝祚万歳、五穀豊穣、諸産業の繁栄を祈願しつつ二十六日の大祭日(神等去出祭)を迎える。地元においては、この日の夜間は特に静粛を旨として、外出を慎み静かに神々を送るという風習が今も残る。なお十七日より二十六日の間は、神々の会議を邪魔しないようにと、奏楽などの歌舞音曲を一切厳禁してあり、僅かに鈴の音が聞えるのみである。二十六日、会議の終了後お別れの宴会が催され、この社の神官が「お立ち、お立ち」と神等去出を告げると神々はそれぞれの故郷に旅立つという。 ・・・・・・・ 『日本書紀』 第九段本文 故、大己貴神、則ち其の子の辞を以て、二の神に白して曰はく、「我が怙めし子だにも、既に避去りまつりぬ。故、吾亦避るべし。如し吾防禦かましかば、国内の諸神、必ず当に同く禦きてむ。今我避り奉らば、誰か復敢へて順はぬ者有らむ」とまうしたまふ。乃ち国平けし時に杖けりし広矛を以て、二の神に授りて曰はく、「吾此の矛を以て、卒に功治せること有り。天孫、若し此の矛を用て国を治らば、必ず平安くましましなむ。今我当に百足らず八十隈に、隠去れなむ」とのたまふ。言訖りて遂に隠りましぬ。是に、二の神、諸の順はぬ鬼神等を誅ひて、果に復命す。 第九段一書(第一) 故、天照大神、復武甕槌神及び経津主神を遣して、先づ行きて駈除はしむ。時に二の神、出雲に降到りて、便ち大己貴神に問ひて曰はく、「汝、此の国を将て、天神に奉らむや以不や」とのたまふ。対へて曰さく、「吾が児事代主、射鳥遨遊して、三津の碕に在り。今当に問ひて報さむ」とまうす。乃ち使人を遣して訪ふ。対へて曰さく、「天神の求ひたまふ所を、何ぞ奉らざらむや」とまうす。故、大己貴神、其の子の辞を以て、二の神に報す。二の神、乃ち天に昇りて、復命をもて告して曰さく、「葦原中国は、皆已に平け竟へぬ」とまうす。 第九段一書(第二) 一書に曰はく、天神、経津主神・武甕槌神を遣して、葦原中国を平定めしむ。時に二の神曰さく、「天に悪しき神有り。名を天津甕星と曰ふ。亦の名は天香香背男)。請ふ、先づ此の神を誅ひて、然して後に下りて葦原中国を撥はむ」とまうす。是の時に、斎主の神を斎の大人と号す。此の神、今東国の?取の地に在す。既にして二の神、出雲の五十田狭(いたさ)の小汀に降到りて、大己貴神に問ひて曰はく、「汝、将に此の国を以て、天神に奉らむや以不や」とのたまふ。対へて曰はく、「疑ふ、汝二の神は、是吾が處に来ませるに非ざるか。故、許さず」とのたまふ。是に、経津主神、則ち還り昇りて報告す。時に高皇産霊尊、及ち二の神を還し遣して、大己貴神に勅して曰はく、「今、汝が所言を聞くに、深く其の理有り。故、更に條にして勅したまふ。夫れ汝が治す顕露の事は、是吾孫治すべし。汝は以て神事を治すべし。又汝が住むべき天日隅宮は、今供造りまつらむこと、即ち千尋の栲縄を以て、結ひて百八十紐にせむ。其の宮を造る制は、柱は高く大し。板は広く厚くせむ。又田供佃らむ。又汝が往来ひて海に遊ぶ具の為には、高橋・浮橋及び天鳥船、亦供造りまつらむ。又天安河に、亦打橋造らむ。又百八十縫の白楯供造らむ。又汝が祭祀を主らむは、天穗日命、是なり」とのたまふ。 是に、大己貴神報へて曰さく、「天神の勅教、如此慇懃なり。敢へて命に従はざらむや。吾が治す顕露の事は、皇孫当に治めたまふべし。吾は退りて幽事を治めむ」とまうす。乃ち岐神を二の神に薦めて曰さく、「是、当に我に代りて従へ奉るべし。吾、将に此より避去りなむ」とまうして、即ち躬に瑞の八坂瓊を被ひて、長に隠れましき。故、経津主神、岐神を以て郷導として、周流きつつ削平ぐ。逆命者有るをば、即ち加斬戮す。帰順ふ者をば、仍りて加褒美む。是の時に、帰順ふ首渠は、大物主神及び事代主神なり。乃ち八十万の神を天高市に合めて、帥ゐて天に昇りて、其の誠款の至を陳す。 |
記紀の旅
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