男浅津間若子宿禰命(雄朝津間稚子宿禰天皇) 允恭天皇

奈良県明日香村・大阪府藤井寺市

盟神探湯 くかたち

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允恭天皇は、仁徳天皇の第四子、母は磐之媛命。

反正天皇が亡くなり、周りは次の天皇を是非にというのだけれど、病があってという理由で再三辞退をする。

それを見かねた妃の忍坂大中媛、冬の寒い日に、洗手水を自ら持って天皇の前に立ち、

「なんで天皇になってくれへんの」と、詰め寄る。天皇は背を向けて黙っている。

お互いに無言のまま時間は小一時間がたった。妃の持つ水が腕にも流れ、それが凍るほどに冷えた。

「私、このまま凍え死ぬわ、きっと。」

見かねた天皇、「分った。お前のその誠意に負けた。天皇になる」

女は偉い。賢い。忍坂大中媛、この1時間の辛抱で、ファーストレディになった。

天皇の病は、新羅から名医を呼び寄せて完治した。

ところで、この天皇、どうして名に宿禰なんて付くのやろ。臣下でもあるまいに。

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四年、天皇は云った。

「どうも最近、氏姓うじかばねが乱れてる。あいつ名門氏を名乗っているけど、素性怪しいなあ」

「あいつの姓、いつの代に賜ったもや。覚えがないで」

ということで、盟神探湯を行うことになった。

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奈良県高市郡明日香村豊浦に、甘樫坐神社がある。

境内に、「立石」がある。

境内の説明文に、

盟神探湯は、裁判の一種として考えられ、

煮え湯の入った釜に手を入れ、「正しき者にはやけどなし、偽りし者はやけどあり」という極めて荒い裁判の方法である。

『日本書紀』允恭天皇四年、氏姓制度の混乱を正すため、甘樫の神の前に、諸氏を会して、盟神探湯を行ったとある。

現在では、毎年4月境内にある立石の前に釜を据え、嘘、偽りを正し、爽やかに暮らしたいという願いを込め、

「くかたち神事」をして、その形を保存継承している。

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ほんまに荒っぽい裁判やなあ。

私は生涯、これっぽっちも嘘などついたことがないし、人を欺いたりしたことがないが、

持って生まれたこの面の皮も手の皮も、上品な柔肌やから、

こんな盟神探湯裁判させられたら、やけどしてしまうやんか。

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氏姓制度の乱れはその後も続いたようで、ようやく天武十三年(684)、天武天皇が制定した「八色の姓」で氏族系譜が新たに整理された。

律令国家の夜明けである。湯に手を入れるのではなく、「律令」で定められた。

ちなみに、八色とは、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の姓である。

ただし、実際に賜ったのは、真人、朝臣、宿禰、忌寸の4色。

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四十二年の春正月に、天皇崩りましぬ。冬十月に、天皇を河内の長野原陵に葬りまつる。

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大阪府藤井寺市国府1丁目に、允恭天皇陵(恵我長野北陵)がある。

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『古事記』

弟、男浅津間若子宿禰命、遠飛鳥宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、意富本杼王の妹、忍坂の大中津比売命を娶して、生みませる御子、木梨之軽王。次に長田大郎女。次に境の黒日子王。次に穴穗命。次に軽大郎女、亦の名は衣通郎女。御名を衣通王と負はせる所以は、其の身の光、衣より通り出づればなり。次に八瓜の白日子王。次に大長谷命。次に橘大郎女。次に酒見郎女。凡そ天皇の御子等、九柱なり。男王五、女王四。此の九王の中に、穴穗命は天の下治らしめしき。次に大長谷命、天の下治らしめしき。
天皇初め天津日継知らしめさむと為し時、天皇辞びて詔りたまひしく、「我は一つの長き病有り。日継知らしめすこと得じ。」とのりたまひき。然れども大后を始めて、諸の卿等、堅く奏すに因りて、乃ち天の下治らしめしき。此の時、新良の国主、御調八十一艘を貢進りき。爾に御調の大使、名は金波鎮漢紀武と云ふ、此の人深く薬方を知れり。故、帝皇の御病を治め差やしき。是に天皇、天の下の氏氏名名の人等の氏姓の忤ひ過てるを愁ひたまひて、味白梼の言八十禍津日の前に、玖訶?を居ゑて、天の下の八十友緒の氏姓を定め賜ひき。

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『日本書紀』

雄朝津間稚子宿禰天皇は、瑞歯別天皇の同母弟なり。天皇、岐嶷にましますより総角に至るまでに、仁惠ましまして倹下りたまへり。壮に及りて篤く病して、容止不便ず。五年の春正月に、瑞歯別天皇崩りましぬ。爰に群卿、議りて曰はく、「方に今、大鷦鷯天皇の子は、雄朝津間稚子宿禰皇子と、大草香皇子とまします。然るに雄朝津間稚子宿禰皇子、長にして仁孝まします」といふ。即ち吉日を選びて、跪きて天皇の璽を上る。雄朝津間稚子宿禰皇子、謝りて曰はく、「我が不天、久しく篤き疾に離りて、歩行くこと能はず。且我既に病を除めむとして、独奏言さずして、而も密に身を破りて病を治むれども、猶差ゆること勿し。是に由りて、先皇、責めて曰はく、『汝患病すと雖も、縦に身を破れり。不孝、孰か?より甚しからむ。其れ長く生くとも、遂に継業すこと得じ。』とのたまふ。亦我が兄の二の天皇、我を愚なりとして軽したまふ。群卿の共に知れる所なり。夫れ天下は、大きなる器なり。帝位は、鴻きなる業なり。且民の父母は、斯則ち賢聖の職なり。豈下愚任へむや。更に賢しき王を選びて立てまつるべし。寡人、敢へて当らじ」とのたまふ。群臣、再拜みて言さく、「夫れ帝位は、以て久に曠しくあるべからず。天命は、以て謙り距くべからず。今大王、時を留め衆に逆ひて、号位を正しくしたまはずは、臣等、恐るらくは、百姓の望絶へなむことを。願はくは、大王、労しと雖も、猶即天皇位せ」とまうす。雄朝津間稚子宿禰皇子の曰はく、「宗廟社稷を奉くるは、重事なり。寡人、篤き疾して、以て称ふに足らず」とのたまふ。猶辞びて聴したまはず。是に、群臣、皆固く請して曰さく、「臣、伏して計るに、大王、皇祖の宗廟を奉けたまふこと、最も宜称へり。天下の万民と雖も、皆宜しと以為へり。願はくは、大王、聴したまへ」とまうす。
元年の冬十有二月に、妃忍坂大中姫命、群臣の憂へ吟ふに苦みて、親ら洗手水を執りて、皇子の前に進む。仍りて啓して曰さく、「大王、辞ひたまひて位に即きたまはず。位空しくして、既に年月を経ぬ。群臣百寮、愁へて所為知らず。願はくは、大王、群の望に従ひたまひて、強に帝位に即きたまへ」とまうす。然るに皇子、聴したまはまく欲せずして、背き居して言はず。是に、大中姫命、惶りて、退かむことを知らずして侍ひたまふこと、四五剋を経たり。此の時に当りて、季冬の節にして、風亦烈しく寒し。大中姫の捧げたる鋺の水、溢れて腕に凝れり。寒きに堪へずして死せむとす。皇子、顧みて驚きたまふ。則ち扶け起して謂りて曰はく、「嗣位は、重事なり。輙く就くこと得ず。是を以て、今までに従はず。然るに今群臣の請ふこと、事理灼然なり。何ぞ遂に謝びむや」とのたまふ。
爰に大中姫命、仰ぎ歓びて、則ち群卿に謂りて曰はく、「皇子、群臣の請すことを聴さむとしたまふ。今天皇の璽符を上るべし」といふ。是に、群臣、大きに喜びて、即日に、天皇の璽符を捧げて、再拜みて上る。皇子の曰はく、「群卿、共に天下の為に寡人を請ふ。寡人、何ぞ敢へて遂に辞びむ」とのたまひて、乃ち帝位に即きたまふ。是歳、太歳壬子。
二年の春二月の丙申の朔己酉に、忍坂大中姫を立てて皇后とす。是の日に、皇后の為に刑部を定む。皇后、木梨軽皇子・名形大娘皇女・境黒彦皇子・穴穂天皇・軽大娘皇女・八釣白彦皇子・大泊瀬稚武天皇・但馬橘大娘皇女・酒見皇女を生れませり。初め皇后、母に隨ひたまひて家に在しますときに、独苑の中に遊びたまふ。時に闘?国造、傍の徑より行く。馬に乗りて籬に莅みて、皇后に謂りて、嘲りて曰はく、「能くし■そのを作るや、汝」といふ。且曰はく、「壓乞、戸母、其の蘭一莖」といふ。皇后、則ち一根の蘭を採りて、馬に乗れる者に与ふ。因りて、問ひて曰はく、「何に用むとか蘭を求むるや」とのたまふ。馬に乗れる者、対ヘて曰はく、「山に行かむときに?撥はむ」といふ。時に皇后、意の裏に、馬に乗れる者の辞の礼无きを結びたまひて、即ち謂りて曰はく、「首や、余、忘れじ」とのたまふ。是の後に、皇后、登祚の年に、馬に乗りて蘭乞ひし者を覓めて、昔日の罪を数めて殺さむとす。爰に蘭乞ひし者、 ?を地に搶きて叩頭みて曰さく、「臣が罪、実に死に当れり。然れども其の日に当りては、貴き者にましまさむといふことを知りたてまつらず」とまうす。是に、皇后、死刑を赦したまひて、其の姓を貶して稲置と謂ふ。
三年の春正月の辛酉の朔に、使を遣して良き医を新羅に求む。
秋八月に、医、新羅より至でたり。則ち天皇の病を治めしむ。幾時も経ずして、病已に差えぬ。天皇、歓びたまひて、厚く医に賞して国に帰したまふ。
四年の秋九月の辛巳の朔己丑に、詔して曰はく、「上古治むること、人民所を得て、姓名錯ふこと勿し。今朕、踐祚りて、?に四年。上下相争ひて、百姓安からず。或いは誤りて己が姓を失ふ。或いは故に高き氏を認む。其れ治むるに至らざることは、蓋し是に由りてなり。朕、不賢しと雖も、豈其の錯へるを正さざらむや。群臣、議り定めて奏せ」とのたまふ。群臣、皆言さく、「陛下、失を挙げ枉れるを正して、氏姓を定めたまはば、臣等、冒死へまつらむ」と奏すに、可されぬ。戊申に、詔して曰はく、「群卿百寮及び諸の国造等、皆各言さく、『或いは帝皇の裔、或いは異しくして天降れり』とまうす。然れども三才顕れ分れしより以来、多に万歳を歴ぬ。是を以て、一の氏蕃息りて、更に万姓と為れり。其の実を知り難し。故、諸の氏姓の人等、沐浴斉戒して、各盟神探湯せよ」とのたまふ。則ち味橿丘の辞禍戸■さきに、探湯瓮を坐ゑて、諸人を引きて赴かしめて曰はく、「実を得むものは全からむ。偽らば必ず害れなむ」とのたまふ。或いは泥を釜に納れて煮沸して、手を攘りて湯の泥を探る。或いは斧を火の色に焼きて、掌に置く。是に、諸人、各木綿手繦を著て、釜に赴きて探湯す。則ち実を得る者は自づからに全く、実を得ざる者は皆傷れぬ。是を以て、故に詐る者は、愕然ぢて、豫め退きて進むこと無し。是より後、氏姓自づから定りて、更に詐る人無し。

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