男浅津間若子宿禰命(雄朝津間稚子宿禰天皇) 允恭天皇

愛媛県松山市姫原

軽太子と軽大郎女

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『古事記』に、

允恭天皇は、大中津比売命を妃(後の皇后)として、

木梨之軽王、長田大郎女、黒日子王、穴穗命、軽大郎女、亦の名は衣通郎女、白日子王、大長谷命。橘大郎女、酒見郎女、

男王五人、女王四人の子宝に恵まれたとある。

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木梨之軽王は長男で、太子になった。将来天皇になることが約束された。

兄弟妹がいっぱいでうらやましい。両親の愛に育まれて、みんな大きくなった。

中でも、軽大郎女は、周りが目を見張る美しい女性になった。衣通郎女とみんなが呼んだ。

「其の身の光、衣より通り出づればなり」と、『古事記』は記す。

兄の軽皇子は、この妹の軽大郎女が子どものときから可愛くて大好きだった。いつもいっしょに遊んだ。

その愛が、いつの頃からかゆがんでしまった。

妹への愛が、女への愛に変ってしまった。実の妹が、禁断の果実になってしまった。

許される愛ではない。死のうと思った。天皇の位もいらないと思った。

それでも禁断の果実への想いはますます募った。

ついに、ついに禁断の果実に手をだしてしまった・・・。

周囲の知るところとなり、臣民の心は離れた。天皇位を失い、伊予(愛媛県)に流された。

残された衣通郎女、歌を詠んだ。(この歌は『万葉集』にも載る。)

君が往き け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ

衣通郎女も、兄への愛を抑えることはできなかった。

追った、伊予に兄を追った。

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愛媛県松山市姫原に、軽之神社がある。

『古事記』は、「共に自ら死にたまひき」と結ぶ。

許されぬ悲しい愛の物語を語る。

軽之神社は、允恭天皇の皇太子・軽皇子と軽大郎女の兄妹を祀るとある。

村人たちは、この地で亡くなったふたりの霊を哀れんで社を建てたという。

毎年4月28日、祭礼を行っている。

ふたりを祀った「比翼塚」が、神社の近くの山裾にある。

『日本書紀』は、その内容を少し異にする。

配流されたのは軽大郎女という。太子を配流することはできないという。かってな言い分だ。

残った軽皇子は、天皇位を弟の穴穂皇子と争い、敗れて自決したという。伊予に流されたという異説も付けているが。

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『古事記』

天皇崩りましし後、木梨之軽太子、日継知らしめすに定まれるを、未だ位に即きたまはざりし間に、其の伊呂妹軽大郎女に?けて歌曰ひたまひしく、
  あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下娉ひに 我が娉ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 昨夜こそは 安く肌觸れ
とうたひたまひき。此は志良宜歌なり。又歌曰ひたまひしく、
  笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば
とうたひたまひき。此は夷振の上歌なり。
是を以ちて百官及天の下の人等、軽太子に背きて、穴穗御子に帰りき。爾に軽太子畏みて、大前小前宿禰の大臣の家に逃げ入りて、兵器を備へ作りたまひき。爾の時に作りたまひし矢は、其の箭の内を銅にせり。故、其の矢を号けて軽箭と謂ふ。穴穗御子も亦、兵器を作りたまひき。此の王子の作りたまひし矢は、即ち今時の矢なり。是を穴穗箭と謂ふ。是に穴穗御子、軍を興して大前小前宿禰の家を囲みたまひき。爾に其の門に到りましし時、大く氷雨零りき。故、歌曰ひたまひしく、
  大前 小前宿禰が 金門蔭 かく寄り来ね 雨立ち止めむ
とうたひたまひき。爾に其の大前小前宿禰、手を挙げ膝を打ち、?ひ訶那伝、歌ひ参来つ。其の歌に曰ひしく、
  宮人の 脚結の子鈴 落ちにきと 宮人とよむ 里人もゆめ
といひき。此の歌は宮人振なり。如此歌ひ参帰て白しけらく、「我が天皇の御子、伊呂兄の王に兵をな及りたまひそ。若し兵を及りたまはば、必ず人咲はむ。僕捕へて貢進らむ。」とまをしき。爾に兵を解きて退き坐しき。故、大前小前宿禰、其の軽太子を捕へて、率て参出て貢進りき。其の太子、捕へらえて歌曰ひたまひしく、
  天飛む 軽の孃子 いた泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く
とうたひたまひき。又歌曰ひたまひしく、
  天飛む 軽孃子 したたにも 寄り寝てとほれ 軽孃子ども
とうたひたまひき。故、其の軽太子は、伊余の湯に流しき。又流さえむとしたまひし時、歌曰ひたまひしく、
  天飛ぶ 鳥も使ぞ 鶴が音の 聞えむ時は 我が名問はさね
とうたひたまひき。此の三歌は天田振なり。又歌曰ひたまひしく、
  王を 島に放らば 船余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ
とうたひたまひき。此の歌は夷振の片下ろしなり。其の衣通王、歌を獻りき。其の歌に曰ひしく、
  夏草の あひねの浜の 蛎貝に 足蹈ますな あかしてとほれ
といひき。故、後亦恋ひ慕ひ堪へずて、追ひ往きし時、歌曰ひたまひしく、
  君が往き け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ 此に山多豆と云ふは、是れ今の造木なり。
とうたひたまひき。故、追ひ到りましし時、待ち懐ひて歌曰ひたまひしく、
  隠り国の 泊瀬の山の 大峽には 幡張り立て さ小峽には 幡張り立て 大峽にし なかさだめる 思ひ妻あはれ 槻弓の 臥やる臥やりも 梓弓 起てり起てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ
とうたひたまひき。又歌曰ひたまひしく、
  隠り国の 泊瀬の河の 上つ瀬に 齋杙を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち 齋杙には鏡を懸け 真杙には 真玉を懸け 真玉如す 吾が思ふ妹 鏡如す 吾が思ふ妻 ありと言はばこそに 家にも行かめ 国をも偲はめ
とうたひたまひき。如此歌ひて、即ち共に自ら死にたまひき。故、此の二歌は読歌なり。

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『日本書紀』

二十三年の春三月の甲午の朔庚子に、木梨軽皇子を立てて太子とす。容姿佳麗し。見る者、自づからに感でぬ。同母妹軽大娘皇女、亦艶妙し。太子、恆に大娘皇女と合せむと念す。罪有らむことを畏りて黙あり。然るに感でたまふ情、既に盛にして、殆に死するに至りまさむとす。爰に以為さく、徒に空しく死なむよりは、刑有りと雖も、何ぞ忍ぶること得むとおもほす。遂に竊に通けぬ。乃ち悒懐少しく息みぬ。仍りて歌して曰はく、
  あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下泣きに 我が泣く妻 片泣きに 我が泣く妻 今夜こそ 安く膚触れ
二十四年の夏六月に、御膳の羹汁、凝以作氷れり。天皇、異びたまひて、其の所由を卜はしむ。卜へる者の曰さく、「内の乱有り。蓋し親親相?けたるか」とまうす。時に人有りて曰さく、「木梨軽太子、同母妹軽大娘皇女を?けたまへり」とまうす。因りて、推へ問ふ。辞既に実なり。太子は、是儲君たり、加刑すること得ず。則ち大娘皇子を伊豫に移す。時に太子、歌して曰はく、
  大君を 嶋に放り 船余り い還り来むぞ 我が畳斎め 言をこそ 畳と言はめ 我が妻を斎め
又歌して曰はく、
  天飛む 軽嬢子 甚泣かば 人知りぬべみ 幡舍の山の 鳩の 下泣きに泣く
「安康紀」に、
二年の春正月に、天皇崩りましぬ。
冬十月に、葬礼畢りぬ。是の時に、太子、暴虐行て、婦女に淫けたまふ。国人謗りまつる。群臣従へまつらず。悉に穴穗皇子に隷きぬ。爰に太子、穴穗皇子を襲はむとして、密に兵を設けたまふ。穴穗皇子、復兵を興して戦はむとす。故、穴穗括箭・軽括箭、始めて此の時に起れり。時に太子、群臣従へまつらず、百姓乖き違へることを知りて、乃ち出でて、物部大前宿禰の家に匿れたまふ。穴穗皇子、聞しめして則ち囲む。大前宿禰、門に出でて迎へたてまつる。穴穗皇子、歌して曰はく、
  大前 小前宿禰が 金門蔭 かく立ち寄らね 雨立ち止めむ
大前宿禰、答歌して曰さく、
  宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人動む 里人もゆめ
乃ち皇子に啓して曰さく、「願はくは、太子をな害したまひそ。臣、議らむ」とまうす。是に由りて、太子、自ら大前宿禰の家に死せましぬ。一に云はく、伊豫国に流しまつるといふ。

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