息長帯比売命(気長足姫尊) 神功皇后

福岡・佐賀・長崎

九州には、あちこちに神功皇后の伝承地がある。『記紀』に記さないところもある。

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福岡県遠賀郡岡垣町高倉に、高倉神社がある。

『日本書紀』に、

水門に到るに、御船、進くこと得ず。則ち熊鰐に問ひて曰はく、「朕聞く、汝熊鰐は、明き心有りて参来り。何ぞ船の進かざる」とのたまふ。熊鰐奏して曰さく、「御船進くこと得ざる所以は、臣が罪に非ず。是の浦の口に、男女の二神有す。男神をば大倉主と曰す。女神をば菟夫羅媛と曰す。必に是の神の心か」とまうす。天皇、則ち祷祈みたまひて、挟杪者倭国の菟田の人伊賀彦を以て祝として祭らしめたまふ。則ち船進くこと得つ。

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これは、豊浦宮から香椎宮に移動する仲哀天皇の話だけれど、

途中岡の水門で船が動かなくなった。先導する熊鰐にたずねると、地元の神、大倉主命と菟夫羅媛命の二神に挨拶がないからという。

天皇がお祭りをすると、船は動いた。この二神を祀る神社が、高倉神社である。

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福岡県朝倉市荷原に、美奈宜神社がある。

祭神は、天照大神、住吉大神、春日大神

『日本書紀』に、

且荷持田村に、羽白熊鷲といふ者有り。其の為人、強く健し。亦身に翼有りて、能く飛びて高く翔る。是を以て、皇命に従はず。毎に人民を略盜む。戊子に、皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峽宮に遷りたまふ。・・・中略・・・。辛卯に、層搖野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。

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朝倉市荷原、この辺りが熊襲の本拠地だった。神功皇后は、近くの山に陣を構え、羽白熊鷲を討った。

後に、仁徳天皇の勅願により、当社が祀られた。

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福岡県朝倉市林田にも、美奈宜神社がある。

神功皇后の熊襲平定に由来する。

河貝子(蜷にな)を集めて城とし、熊襲を欺いて滅ばした。この地を蜷城(になき・みなぎ)という。

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福岡県田川郡香春町鏡山に、鏡山大神社がある。

祭神は、神功皇后、仲哀天皇。

『豊前国風土記』逸文に、

豊前の国の風土記に云はく、田河の郡。鏡山、郡の東にあり。昔者、気長足姫尊、此の山に在して、遙に国形を覧て、勅祈ひたまひしく、「天神も地祇も我が為に福へたまへ」とのりたまひて、乃便ち、御鏡を用ちて、此の処に安置きたまひき。其の鏡、即ち石と化為りて山の中に見在り。因りて名づけて鏡山と曰ふ。

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神功皇后が新羅出兵のとき、この小山に天神地祇を祀り、必勝を祈願して、皇后の御魂代として鎮めた鏡を奉ったとされる。

神社の近くに、鏡が池がある。

口碑によれば、

皇后は天神地祇を祈られた後、山を下り、この池を水鏡とし、顔や髪のやつれを直したという。

池の中の石柱「鏡之池」裏面に、

古歌が刻まれている。

豊国の 鏡乃池能 鏡石 かくれもせしな 現れもせし

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福岡県宗像市鐘崎に、織幡神社がある。

祭神は、武内宿禰、住吉大神、志賀大神。

神功皇后は、武内宿禰に指示をして、軍船に立てる赤白の軍旗を、この地で織らせたことから織幡神社という。

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福岡県福津市宮司元町に、宮地嶽神社がある。

神社由緒に、

仲哀天皇亡きあと、自ら大陸に渡られる折、神功皇后は当地に滞在され、裏の山の頂きに祭壇を設け、

「天命を奉じて彼の地に渡らむ。希わくば開運を垂れ給えと、祈願して船出された。

これより、この地を「宮地」と呼び、彼の山を「宮地嶽」と称するようになり、

ここに、本社は息長足比売命のご偉業を称え、ご祭神と祀り、ともに功労をなした勝村・勝頼両神とあわせて、

宮地嶽三柱大神と崇め、世の崇敬をあつめている。

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福岡市西区小戸に、小戸大神宮がある。

神功皇后、安産石がある。

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福岡市西区下山門に、壱岐神社がある。 写真は旧の社殿。

神社は海辺にあり、この辺りを「生いきの松原」という。

神功皇后が、松の枝を逆さに挿して戦勝を占ったところ、その枝が生育したことから、生の松原という。

祭神は、壱岐直真根子命。

武内宿禰の身代わりになって亡くなった話が、『日本書紀』の応神天皇条にある。

九年の夏四月に、武内宿禰を筑紫に遣して、百姓を監察しむ。時に武内宿禰の弟甘美内宿禰、兄を廃てむとして、即ち天皇に讒し言さく、「武内宿禰、常に天下を望ふ情有り。今聞く、筑紫に在りて、密に謀りて曰ふならく、『独筑紫を裂きて、三韓を招きて己に朝はしめて、遂に天下を有たむ』といふなり」とまうす。是に、天皇、則ち使を遣して、武内宿禰を殺さしむ。時に武内宿禰、歎きて曰はく、「吾、元より貳心無くして、忠を以て君に事めつ。今何の禍そも、罪無くして死らむや」といふ。是に、壹伎直の祖真根子といふ者有り。其れ為人、能く武内宿禰の形に似れり。独武内宿禰の、罪無くして空しく死らむことを惜)びて、便ち武内宿禰に語りて曰はく、「今大臣、忠を以て君に事ふ。既に黒心無きことは、天下共に知れり。願はくは、密き避りて、朝に参赴でまして、親ら罪無きことを辨めて、後に死らむこと晩からじ。且、時人の毎に云はく、『僕が形、大臣に似れり』といふ。故、今我、大臣に代りて死りて、大臣の丹心を明さむ」といひて、則ち剣に伏りて自ら死りぬ。時に武内宿禰、独大きに悲びて、竊に筑紫を避りて、浮海よりして南海より廻りて、紀水門に泊る。僅に朝に逮ること得て、乃ち罪無きことを辨む。天皇、則ち武内宿禰と甘美内宿禰とを推へ問ひたまふ。是に、二人、各堅く執へて、争ふ。是非決め難し。天皇、勅して、神祇に請して探湯せしむ。是を以て、武内宿禰と甘美内宿禰と、共に磯城川の?に出でて、探湯す。武内宿禰勝ちぬ。便ち横刀を執りて、甘美内宿禰を毆ち仆して、遂に殺さむとす。天皇、勅して釈さしめたまふ。仍りて紀直等の祖に賜ふ。

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福岡市西区能古島に、白鬚神社がある。

祭神は、住吉大神、神功皇后、志賀明神。

能古島という地名は、「神功皇后が、住吉の神霊を残した島なので、残島のこのしまになった、と云われ、この神霊を留めたのが、白鬚神社である。

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佐賀市大和町川上に、與止日女神社(河上神社)がある。

祭神は、與止日女命。

境内に、「金精さん」がある。

神社由緒に、

祭神の與止日女命は神功皇后の妹で、

その昔、神功皇后三韓征駐の折り当社に留まり、妹の與止日女命が子宝に恵まれぬため、

密かに館の一隅にあった男根の自然石に肌を触れて子宝を願ったところ、

色あくまで白く、きめこまやかにして、玉の如き子を授かったという。

以来、金精さまと呼んで、ここに安置する。

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佐賀県唐津市鏡の鏡山に、鏡山神社がある。

祭神は、息長足比売命、保食神。

金銀宝の国は見えますか。

神功皇后、三韓征伐の折、此の山に登り、「とにかく石」に、寶鏡幣帛を立て天神地祇を祭り、戦勝を祈願されたことにより創建される。

「度瓊可久石」

是の度瓊可久石に方位計を置き、真北に向ふと韓国からくにに着くとの神託あり。

よって、唐津市鏡赤水の船繋石より出御し、神集島に着き、軍議を開き、壱岐・対馬を経て、

無事韓国に着くとの由緒深き岩なり。

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佐賀県唐津市神集島かしわじまに、住吉神社がある。

いよいよ、大海を渡るというので、神々を集めて軍議を開いた。だから神集島という。

住吉神社の祭神住吉三神は、航海の神さま。

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長崎県壱岐市勝本町勝本浦に、聖母宮(住吉神社)がある。

祭神は、息長足比売尊、足仲彦尊、誉田別尊、住吉大神。

神功皇后は、神集島で出兵の勝利を祈願し、壱岐に向けて3270艘の軍船で出発した。

壱岐の島で風待ちをして対馬に向ったので、この地を風本と名付けた。

帰路、この地に立ち寄り、出兵の勝利を祝い、風本を勝本と改めた。

また一説に、敵の首、101500を持ち帰り、この地に埋めたともいう。(神社由緒)

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長崎県対馬市美津島町鴨居瀬に、住吉神社がある。

神功皇后、渡海の折、住吉大神を祀ったという。

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長崎県対馬市峯町木坂に、海神神社がある。

神功皇后、三韓からの帰路、旗八流を納めたところとして、八幡本宮とも称した。

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福岡県糸島郡志摩町馬場に、六所神社がある。

伊奘冉命、速玉男命、事解男命、底筒男命・中筒男命・表筒男命の六神を祀る。

神功皇后、三韓より帰国し、志摩町小金丸の幣の浜に上陸し、六神を祀る。

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福岡県田川市魚町に、風治八幡宮がある。

祭神は、海津見神、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、豊玉姫命、玉依姫命。

神功皇后、筑紫から豊浦に向った途中、この地に来て急に風雨が起ったため、社前の石に腰をかけ祈願したところ、直ちに風雨が治まった。

風治八幡宮という。

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