神倭伊波礼比古命(神日本磐余彦尊) 神武天皇 伊須気余理比売を娶して 大阪府茨木市五十鈴町 神の御子と謂ふなり 大阪府茨木市五十鈴町に、溝咋神社がある。 祭神は、 五十鈴媛命 玉櫛媛命 三島溝咋耳命 ・・・・・ 『古事記』に、 昔、三輪の大物主神(桜井市の大神神社の神さま)が、三島郡(今の茨木市)にきれいな娘がいるとうわさに聞いた。溝咋という神の娘だ。 きれいと聞くと居ても立ってもいられなくなるのが神さま、ふつうの男と変らへん。 さっそく桜井市から茨木市まで出かけた。歩いて。4〜50`はあるやろ、一日がかりや。 ようやく着いて、ここだけは『古事記』の原文(訓読)、よう訳せんわ。 「其の美人の大便為れる時、丹塗矢に化りて、其の大便為れる溝より流れ下りて、其の美人の富登を突きき。」 なにすんのや、あきれるわ。 偉い神さんやから、堂々と親父・三島溝咋耳命に嫁にほしいと申し込めばいいのに。 痴漢やこれは!軽犯罪法や刑法の強制わいせつ罪で捕まるで。 ところが比売も比売、そんな姿を覗かれながら、いい男!と部屋に誘い込む。子どもができる。 その子が神の子、伊須気余理比売である。神武天皇の奥様である。 ・・・・・・・ 大神神社の近くに狭井川がある。
小川というか、溝みたいな川だけどこれが狭井川。 当時は通い婚だったけど、さすがの大物主神も、毎夜40`歩いて桜井市から茨木市は遠い。 ということで、三輪の狭井川の畔に伊須気余理比売の家を建てた。 「さゐ」とはゆりの花のことらしい。この川辺にはゆりの花がいっぱい咲いていた。百合川ということ、きれいな名だ。 今でも大神神社では、この百合の花を育てようとがんばっておられる。お祭りの花なのである。 川のそばに、歌碑が立つ。息子たちが殺されそうになったときに伊須気余理比売がうたった歌。 狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす 『古事記』 故、日向に坐しし時、阿多の小椅君の妹、名は阿比良比売を娶して生める子は、多芸志美美命、次に岐須美美命、二柱坐しき。然れども更に大后と為む美人を求ぎたまひし時、大久米命曰しけらく、「此間に媛女有り。是を神の御子と謂ふ。其の神の御子と謂ふ所以は、三島溝咋の女、名は勢夜陀多良比売、其の容姿麗美しかりき。故、美和の大物主神、見感でて、其の美人の大便為れる時、丹塗矢に化りて、其の大便為れる溝より流れ下りて、其の美人の富登を突きき。爾に其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎。乃ち其の矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、即ち其の美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比売命と謂ひ、亦の名は比売多多良伊須気余理比売、是は其の富登と云ふ事を悪みて、後に名を改めつるぞ。と謂ふ。故、是を以ちて神の御子と謂ふなり。」とまをしき。 是に七媛女、高佐士野に遊行べるに、伊須気余理比売其の中に在りき。爾に大久米命、其の伊須気余理比売を見て、歌を以ちて天皇に白しけらく、 倭の 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰をし枕かむ とまをしき。爾に伊須気余理比売は、其の媛女等の前に立てりき。乃ち天皇、其の媛女等を見したまひて、御心に伊須気余理比売の最前に立てるを知らして、歌を以ちて答曰へたまひしく、 かつがつも いや先立てる 兄をし枕かむ とこたへたまひき。爾に大久米命、天皇の命を以ちて、其の伊須気余理比売に詔りし時、其の大久米命の黥ける利目を見て、奇しと思ひて歌曰ひけらく、 胡■子鶺鴒 千鳥ま鵐 など黥ける利目 とうたひき。爾に大久米命、答へて歌曰ひけらく、 媛女に 直に遇はむと 我が黥ける利目 とうたひき。故、其の孃子、「仕へ奉らむ。」と白しき。是に其の伊須気余理比売命の家、狹井河の上に在りき。天皇、其の伊須気余理比売の許に幸行でまして、一宿御寝し坐しき。其の河を佐韋河と謂ふ由は、其の河の辺に山由理草多に在りき。故、其の山由理草の名を取りて、佐韋河と号けき。山由理草の本の名は佐韋と云ひき。後に其の伊須気余理比売、宮の内に参入りし時、天皇御歌よみしたまひけらく、 葦原の しけしき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝しとよみたまひき。 然して阿礼坐しし御子の名は、日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命、三柱なり。 ・・・ 『日本書紀』 庚申年の秋八月の癸丑の朔戊辰に、天皇、正妃を立てむとす。改めて広)く華冑を求めたまふ。時に、人有りて奏して曰さく、「事代主神、三嶋溝?耳神の女玉櫛媛に共して生める児を、号けて媛蹈?五十鈴媛命と曰す。是、国色秀れたる者なり」とまうす。天皇悦びたまふ。 九月の壬午の朔乙巳に、媛蹈?五十鈴媛命を納れて、正妃としたまふ。 辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位す。是歳を天皇の元年とす。正妃を尊びて皇后としたまふ。皇子神八井命・神渟名川耳尊を生みたまふ。 |
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