神倭伊波礼比古命(神日本磐余彦尊) 神武天皇

五瀬命、男建びして崩りましき

和歌山市和田

「陵は紀国の竃山にあり」

ようやく難波の海を渡り、河内国の白肩津(草香の津)に着いた。

大阪湾は今とはまったく様相が異なり、今の東大阪市の生駒山の麓辺りまで海だった。

難波の海・古図 『古代景観の復原』 日下雅義著 中央公論社 1991

神武の一行はここで船を降り、陸路山越えで大和に入ろうとした。

そこに待ち構えていたのが、登美能那賀須泥毘古(長髓彦)である。戦いになった。

『日本書紀』には「孔舍衛坂の戦い」とある。

東大阪市善根寺町にある春日神社に、この「孔舎坂古戦場」碑が立つ。生駒山越えの難波側に位置する。

この戦いで、神武天皇の兄、五瀬命が腕に矢が当たり深手を負う。

日神の御子である我々が日に向って戦ったから敗れたと反省。

日を背に受けて戦う戦略に切替えた。そのため、ぐるっと紀州を半周して吉野・宇陀から侵略しようとした。

しかし、五瀬命の傷は致命傷となって、紀国の男之水門で雄叫びをして亡くなる。

和歌山市小野町の水門神社に、「男水門」碑が立つ。

紀国の竃山に葬られた。和歌山市和田町に「五瀬命墓」がある。

・・・・・

墓は、竃山神社の裏山にある。神社の祭神は五瀬命。

・・・・・・・

『古事記』

故、其の国より上り行でましし時、浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき。此の時、登美能那賀須泥毘古、軍を興して待ち向へて戦ひき。爾に御船に入れたる楯を取りて下り立ちたまひき。故、其地を号けて楯津と謂ひき。今者に日下の蓼津と云ふ。是に登美毘古と戦ひたまひし時、五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串を負ひたまひき。故爾に詔りたまひしく、「吾は日神の御子と為て、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賎しき奴が痛手を負ひぬ。今者より行き廻りて、背に日を負ひて撃たむ。」と期りたまひて、南の方より廻り幸でましし時、血沼海に到りて、其の御手の血を洗ひたまひき。故、血沼海とは謂ふなり。其地より廻り幸でまして、紀国の男之水門に到りて詔りたまひしく、「賎しき奴が手を負ひてや死なむ。」と男建びして崩りましき。故、其の水門を号けて男の水門と謂ふ。陵は即ち紀国の竃山に在り。

・・・

『日本書紀』

戊午年の春二月の丁酉の朔丁未に、皇師遂に東にゆく。舳艫相接げり。方に難波碕に到るときに、奔き潮有りて太だ急きに会ひぬ。因りて、名けて浪速国とす。亦浪花と曰ふ。今、難波と謂ふは訛れるなり。
三月の丁卯の朔丙子に、遡流而上りて、徑に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります。
夏四月の丙申の朔甲辰に、皇師兵を勒へて、歩より龍田に趣く。而して其の路狭く嶮しくして、人並み行くこと得ず。乃ち還りて更に東膽駒山を踰えて、中洲に入らむと欲す。時に長髓彦聞きて曰はく、「夫れ、天神の子等の来ます所以は、必ず我が国を奪はむとならむ」といひて、則ち尽に属へる兵を起して、徼りて、孔舍衛坂にして、与に会ひ戦ふ。流矢有りて、五瀬命の肱脛に中れり。皇師進み戦ふこと能はず。天皇憂へたまひて、乃ち神策を冲衿に運めたまひて曰はく、「今我は是日神の子孫にして、日に向ひて虜を征つは、此天道に逆れり。若かじ、退き還りて弱きことを示して、神祇を礼び祭ひて、背に日神の威を負ひたてまつりて、影の隨に壓ひ躡みなむには。此の如くせば、曽て刃に血らずして、虜必ず自づからに敗れなむ」とのたまふ。僉曰さく、「然なり」とまうす。是に、軍中に令して曰はく、「且は停れ。復な進きそ」とのたまふ。乃ち軍を引きて還りたまふ。虜亦敢へて逼めまつらず。却りて草香津に至りて、盾を植てて雄誥したまふ。因りて改めて其の津を号けて盾津と曰ふ。今蓼津と云へるは訛れるなり。初め孔舍衛の戦に、人有りて大きなる樹に隠れて、難に免るること得たり。仍りて其の樹を指して曰はく、「恩、母の如し」といふ。時人、因りて其の地を号けて、母木邑と曰ふ。今飫悶廼奇と云ふは訛れるなり。
五月の丙寅の朔癸酉に、軍、茅渟の山城水門に至る。時に五瀬命の矢の瘡痛みますこと甚し。乃ち撫剣りて雄誥して曰はく、「慨哉、大丈夫にして、慨哉、虜が手を被傷ひて、報いずしてや死みなむとよ」とのたまふ。時人、因りて其の處を号けて、雄水門と曰ふ。進みて紀国の竃山に到りて、五瀬命、軍に薨りましぬ。因りて竃山に葬りまつる。

←次へ              次へ→

記紀の旅中巻一覧表に戻る

記紀の旅

『古事記』 『日本書紀』 『風土記』

万葉集を携えて

inserted by FC2 system