神倭伊波礼比古命(神日本磐余彦尊) 神武天皇

高千穂宮で決断

宮崎市下北方町

皇宮屋

宮崎で会社を起し、営業が順調に伸びてくると、いよいよ東京へ進出やなと野心をもつ。

さらにメジャーになると、田舎の本社では効率悪いわ、東京本社や。

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宮崎神宮の北西に小高い丘があり、ここが「皇宮屋」、東征前の「高千穂宮」という。

神武天皇が、兄弟・子どもたちと、大和へ進出する計画を練った場所なのである。

一族挙げての大和進出だから、大変な計画である。

船は準備できたか、途中、戦争になるかもしれん、ぜったい戦いや、武器は十分に揃えたか。

饒速日というライバルがもうすでに大和に進出したらしい。急がなあかん。

もうこっちに帰ってくることなど考えられん、宝物も思い出もみんな船に積み込め。

そうやな、女・子どもはしばらく留守番やな。向こうで落ち着いたら呼び寄せるから。

米用意したか。途中、コンビニも道の駅もないで。釣り道具持っていこ、魚釣ってそれがおかずや。

そや、船旅やから、酔い止めの薬もいるな。

冬十月の五日、東に向って日向の海を発った。

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宮崎神宮

宮崎市神宮

神宮略記には、

神宮は神武天皇(神日本磐余彦尊)を主神とし、相殿には鵜草葺不合尊(御父君)と玉依姫命(御母君)が奉斎されている。天皇は四十五歳の御年、天下統治に応しい地を求めて日向国を御出発、数々の苦難の末に大和地方を平定され、第一代の天皇として即位された。後に皇子神八井耳命の御子建磐龍命により、天皇の御神霊が当地皇居高千穂宮の霊地に鎮座され今日に至っている。

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ところで、『記紀』では日向を出発したことを述べるに止まり、その出発地は記載がない。

伝承地がある。日向市美々津である。美々津は耳川が日向灘に注ぐ、古来からの良港である。

立磐神社

宮崎県日向市美々津

祭神 住吉大神

境内には、「神武天皇御腰懸磐」がある。

祭神である住吉大神に船出の無事を祈願し、いよいよ出発の時、この石に腰を掛けて舟軍を指揮したのだ。

社名の「立磐」はこれに由来する。ここから豊国の宇沙に立ち寄り、地元の接待を受け、さらに筑紫の岡田宮に向う。

 

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『古事記』

神倭伊波礼毘古命、其の伊呂兄五瀬命と二柱、高千穗宮に坐して議りて云りたまひけらく、「何地に坐さば、平らけく天の下の政を聞し看さむ。猶東に行かむ。」とのりたまひて、即ち日向より発たして筑紫に幸行でましき。

『日本書紀』

年四十五歳に及びて、諸の兄及び子等に謂りて曰はく、「昔我が天神、高皇産霊尊・大日?尊、此の豊葦原瑞穗国を挙げて、我が天祖彦火瓊瓊杵尊に授けたまへり。是に、火瓊瓊杵尊、天関を闢き雲路を披け、仙蹕駈ひて戻止ります。是の時に、運、鴻荒に属ひ、時、草昧に鍾れり。故、蒙くして正を養ひて、此の西の偏を治す。皇祖皇考、乃神乃聖にして、慶を積み暉を重ねて、多に年所を歴たり。天祖の降跡りましてより以逮、今に一百七十九万二千四百七十余歳。而るを、遼?なる地、猶未だ王沢に霑はず。逐に邑に君有り、村に長有りて、各自疆を分ちて、用て相凌ぎ?はしむ。抑又、塩土老翁に聞きき。曰ひしく、『東に美き地有り。青山四周れり。其の中に亦、天磐船に乗りて飛び降る者有り』といひき。余謂ふに、彼の地は、必ず以て大業を恢弘べて、天下に光宅るに足りぬべし。蓋し六合の中心か。厥の飛び降るといふ者は、是饒速日と謂ふか。何ぞ就きて都つくらざらむ」とのたまふ。諸の皇子対へて曰さく、「理実灼然なり。我も恆に以て念としつ。早に行ひたまへ」とまうす。是年、太歳甲寅。

其の年の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。

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