神倭伊波礼比古命(神日本磐余彦尊) 神武天皇 邇芸速日命 大阪府交野市私市 天磐船 『古事記』は、 邇芸速日命が天磐船で天より降りきたとは語らない。 邇芸速日命の嫁の兄である登美能那賀須泥毘古が、神武の軍に殺されるときも登場しない。 神武天皇のもとに訪ねてきて、私も天から遅れてやってまいりました、なんて挨拶をする。お仕え申しあげますともいう。 『古事記』は、どうも変や、ちゃうようや。 『日本書紀』は、 神武東征の前、すでに塩土老翁の話として、大和には天磐船の乗って饒速日がすでに降りたと聞いていた。 大和には饒速日命と長髓彦が経営する国がすでにあったんや。 長髓彦の方が真実を語っている。 天から降った饒速日命に、妹まで嫁がせて、君として仕えている。なのに、また天から降った人がやってきた。 神武天皇の方は偽者やろと疑う。 ところがどちらも天から降ったという証明の品を持っていた。 ということは、この段階では饒速日命と神武天皇は互角や。どちらかというと、饒速日命の方が先入権もあろう。 長髓彦は饒速日命に神武天皇と戦おうという。妹のだんなやから信頼していたし、地の利を活かして絶対勝てると思った。 なのに、なのに饒速日命は、神武天皇にお仕え申しあげますと頭を下げてしまった。 しかも、長髓彦を殺してしまった。 饒速日命は物部氏の遠祖である。 ・・・・・ 大阪府交野市私市に、天磐船がある。磐船明神社である。 神社略記にいう。 祭神は天照皇大御神の御孫饒速日尊と申し上げ、神代の昔、三十二人の伴緒を率いて十種瑞の神宝を捧持し、 天翔り空翔り天の磐船に乗りて河内国川上哮ヶ峯の当社に天降りまして、此地より大和へ入られました。 ・・・・・ 奈良県大和郡山市矢田町に、矢田坐久志玉比古神社がある。 祭神は、櫛玉饒速日命・御炊屋姫命。俗に矢落明神ともいう。饒速日命に関する伝承が残る。 饒速日命が天磐船に乗って降臨した際、三本の矢を射て落ちた所を住まいと定めたが、 二の矢が落ちたのが当社と伝え、境内には「二之矢塚」と称する小塚がある。 ・・・・・・・ 『古事記』 故爾に邇芸速日命参赴きて、天つ神の御子に白ししく、「天つ神の御子天降り坐しつと聞けり。故、追ひて参降り来つ。」とまをして、即ち天津瑞を獻りて仕へ奉りき。故、邇芸速日命、登美毘古が妹、登美夜毘売を娶して生める子、宇摩志麻遅命。此は物部連、穗積臣、?臣の祖なり。故、如此荒夫琉神等を言向け平和し、伏はぬ人等を退け撥ひて、畝火の白梼原宮に坐しまして、天の下治らしめしき。 ・・・ 『日本書紀』 時に長髓彦、乃ち行人を遣して、天皇に言して曰さく、「嘗、天神の子有しまして、天磐船に乗りて、天より降り止でませり。号けて櫛玉饒速日命と曰す。是吾が妹三炊屋媛、亦の名は長髓媛、亦の名は鳥見屋媛、を娶りて、遂に児息有り。名をば可美真手命と曰す。故、吾、饒速日命を以て、君として奉へまつる。夫れ天神の子、豈両種有さむや。奈何ぞ更に天神の子と称りて、人の地を奪はむ。吾心に推るに未必為信ならむ」とまうす。天皇の曰はく、「天神の子亦多にあり。汝が君とする所、是実に天神の子ならば、必ず表物有らむ。相示せよ」とのたまふ。長髓彦、即ち饒速日命の天羽羽矢一隻及び歩靫を取りて、天皇に示せ奉る。天皇、覧して曰はく、「事不虚なりけり」とのたまひて、還りて所御の天羽羽矢一隻及び歩靫を以て、長髓彦に賜示ふ。長髓彦、其の天表を見て、益??ることを懐く。然れども凶器已に構へて、其の勢、中に休むこと得ず。而して猶迷へる図を守りて、復改へる意無し。饒速日命、本より天神慇懃したまはくは、唯天孫のみかといふことを知れり。且夫の長髓彦の稟性愎很りて、教ふるに天人の際を以てすべからざることを見て、乃ち殺しつ。其の衆を帥ゐて帰順ふ。天皇、素より饒速日命は、是天より降れりといふことを聞しめせり。而して、今果して忠效を立つ。則ち褒めて寵みたまふ。此物部氏の遠祖なり。 |
記紀の旅
『古事記』 『日本書紀』 『風土記』