神日本磐余彦尊 神武天皇

兄宇迦斯と弟宇迦斯

奈良県宇陀市菟田野区佐倉

宇陀の高城

いよいよ神武天皇の軍は、八咫烏の先導あって、大和の宇陀まで進行した。

宇陀市菟田野区佐倉に「神武天皇東征 菟田高城」の碑がある。

日本最古の城跡と表示されている。

城といっても、後世の石垣を積んだような城でもなく、礎石を持つ建造物跡でもない。

ただの野原である。その通りだと思う。軍は着の身着のままで、ここを大和進攻の拠点としたのだ。

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この高台を少し降りると、式内社・桜実神社がある。

神社境内に、すごい杉の木がある。「八つ房杉」といい、国の天然記念物になっている。この辺りの歴史の古さを示すものでもある。

高さが14b、目通り周囲8bという老杉である。

屈曲し、変着し、一部か朽ち、また新たな芽を出し、この樹は遠い昔からの歴史をずうっと見続けてきた。

この境内、神武天皇が宇陀の高城に駐屯したとき、その四方に定めた神籬のひとつであろうといわれる。

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『記紀』はこの辺りを「宇陀の穿うかち」と呼んでいる。

ここに兄宇迦斯と弟宇迦斯という部族の長兄弟がいた。(『紀』は兄猾と弟猾、ひどい字をあてる)

神武の軍が来たというので戦闘の準備をした。だが、多勢に無勢勝ち目はなかった。

兄宇迦斯は恭順するふりをしてなんとか神武を殺そうとしたが、それを知った弟菟迦斯は兄の策略を密告してしまった。

兄は自分の作った罠で自ら死んでしまった。弟は酒肴を用意して神武の軍にこびた。弟は部族の長として生き延びた。

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いやな世界や。兄弟がいちばん恐い。醜い。

先祖から受け継いできた土地に、見知らぬやつが攻めてきたら、部族を守るために戦うのが長の責任や。

兄宇迦斯はけっして悪い男ではない。兄を売った弟の方が狡猾や。

でも勝者の歴史は、兄を悪者としてしまった。

「宇陀のうかち」の地名が今に残る。宇陀市菟田野区の「宇賀志」である。

ここに、宇賀神社がある。

祭神は、地主神の宇賀斯神魂といわれるが、

遠い昔、戦いに敗れた兄宇迦斯を村人が後に祀ったのだと思うのだが。けっして弟宇迦斯ではない。

境内に陰陽石がある。(写真右)

夫婦でこの石を撫でると、子宝を授かるという。

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『古事記』

故爾に宇陀に兄宇迦斯弟宇迦斯の二人有りき。故、先づ八咫烏を遣はして、二人に問ひて曰ひしく、「今、天つ神の御子幸でましつ。汝等仕へ奉らむや。」といひき。是に兄宇迦斯、鳴鏑を以ちて其の使を待ち射返しき。故、其の鳴鏑の落ちし地を、訶夫羅前と謂ふ。待ち撃たむと云ひて軍を聚めき。然れども軍を得聚めざりしかば、仕へ奉らむと欺陽りて、大殿を作り、其の殿の内に押機を作りて待ちし時に、弟宇迦斯、先づ参向へて、拜みて曰しけらく、「僕が兄、兄宇迦斯、天つ神の御子の使を射返し、待ち攻めむとして軍を聚むれども、得聚めざりしかば、殿を作り、其の内に押機を張りて待ち取らむとす。故、参向へて顕はし白しつ。」とまをしき。爾に大伴連等の祖、道臣命、久米直等の祖、大久米命の二人、兄宇迦斯を召びて、罵詈りて云ひけらく、「伊賀作り仕へ奉れる大殿の内には、意礼先づ入りて、其の仕へ奉らむとする状を明し白せ。」といひて、即ち横刀の手上を握り、矛由気矢刺して、追ひ入るる時、乃ち己が作りし押に打たえて死にき。爾に即ち控き出して斬り散りき。故、其地を宇陀の血原と謂ふ。然して其の弟宇迦斯が獻りし大饗をば、悉に其の御軍に賜ひき。此の時に歌曰ひけらく、
 宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし くぢら障る 前妻が肴乞はさば 立柧の 実の無けくを こきしひゑね
 後妻が 肴乞はさば ? 実の多けくを こきだひゑね ええ しやごしや 此は伊能碁布曽 。ああ しやごしや 此は嘲咲ふぞ。
とうたひき。故、其の弟宇迦斯、此は宇陀の水取等の祖なり。

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『日本書紀』

秋八月の甲午の朔乙未に、天皇、兄猾及び弟猾を徴さしむ。是の両の人は、菟田縣の魁帥なり。時に兄猾来ず。弟猾即ち詣至り。因りて軍門を拜みて、告して曰さく、「臣が兄兄猾の逆をする状は、天孫到りまさむとすと聞りて、即ち兵を起して襲はむとす。皇師の威を望見るに、敢へて敵るまじきことを懼ぢて、乃ち潜に其の兵を伏して、権に新宮を作りて、殿の内に機を施きて、饗らむと請すに因りて作難らむとす。願はくは、此の詐を知しめして、善く備へたまへ」とまうす。天皇、即ち道臣命を遣して、其の逆ふる状を察めたまふ。時に道臣命、審に、賊害之心有ることを知りて、大きに怒りて誥び嘖ひて曰はく、「虜、爾が造れる屋に、爾自ら居よ」といふ。因りて、剣案り弓彎ひて、逼めて催ひ入れしむ。兄猾、罪を天に獲たれば、事辞る所無し。乃ち自機を蹈みて壓はれ死ぬ。時に、其の屍を陳して斯る。流るる血、踝を沒る。故、其の地を号けて、菟田の血原と曰ふ。已にして、弟猾大きに牛酒を設けて、皇師に労へ饗す。天皇、其の酒宍を以て、軍卒に班ち賜ふ。乃ち御謡して曰はく、

菟田の 高城に 鴫羂張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鷹等障り 前妻が 肴乞はさば 立稜麥の 実の無けくを 幾多聶ゑね 後妻が 肴乞はさば 斎賢木  実の多けくを 幾多聶ゑね

是を来目歌と謂ふ。今、楽府に此の歌を奏ふときには、猶手量の大きさ小ささ、及び音声の巨さ細さ有り。此古の遺式なり。是の後に、天皇、吉野の地を省たまはむと欲して、乃ち菟田の穿邑より、親ら軽兵を率ゐて、巡り幸す。吉野に至る時に、人有りて井の中より出でたり。光りて尾有り。天皇問ひて曰はく、「汝は何人ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是国神なり。名を井光と為ふ」とまうす。此則ち吉野首部が始祖なり。更少し進めば、亦尾有りて磐石を披けて出者り。天皇問ひて曰はく、「汝は何人ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是磐排別が子なり」とまうす。此則ち吉野の国樔部が始祖なり。水に縁ひて西に行きたまふに及びて、亦梁を作ちて取魚する者有り。天皇問ひたまふ。対へて曰さく、「臣は是苞苴擔が子なり」とまうす。此則ち阿太の養?部が始祖なり。

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