大帯日子淤斯呂和気天皇(大足彦忍代別天皇) 景行天皇 日本武尊 岐阜・三重 能褒野に崩りましぬ ・・・・・ 居醒の泉で意識を取り戻した日本武尊は、南に向って歩き始めた。どこへ行くのか。東にある宮簀媛のもとではない。 深傷を負い、気持ちは大和へ帰ろうと歩み始めていた。 ・・・ 気持ちは空を翔けていきたいほどなのに、足が、足が思うように動かない。「当芸当芸たぎたぎ」しくなったと嘆く。 それは、岐阜県多芸郡養老町辺りのこと、玉倉部の清泉から15キロほど歩いた。 養老町養老にある大菩提寺(大悲閣)の入口に「日本武尊史跡・当芸野」碑が立つ。 ここから山手に進むと「養老の滝」があり、この霊泉で元正天皇が美しく若返ったという所だ。「元正天皇行幸跡碑」がある。 養老町から北を振り返ると、白く雪を頂く伊吹山が望めた。 ・・・・・ 当芸野を発って、少し歩いたがとても疲れて、坂道では杖をついて歩いた。杖突坂という。 岐阜県海津市南濃町の行基寺近くに石碑がある。当芸野から10キロ。 ・・・・・ 尾津の崎まで辿り着いた時、 かつて東征の途、尾張へ行こうとしたときここ尾津崎で置き忘れた刀がまだそのままにあったと、ヤマトタケルは感激して歌を詠んだ。 その尾津崎は、三重県桑名市多度町と云われる。杖突坂から南に10キロ。 多度町御衣野の山麓に尾津神社がある。神社前に「日本武尊御遺蹟・尾津崎」の石碑が立つ。 神社辺りは静かな田園風景が広がり、集落の向こうには雪を頂く鈴鹿山系の藤原岳を望む。 古くはこの辺りまで海が入り込み、尾津の岬といった。 その証があった。尾津神社から北東に1キロほどのところに「舟着社」という神社があり、境内には「舟置神社」という石碑もある。 現在は田園の真中で、揖斐川下流まで3キロ、海岸線までというと10数キロあまりはあるだろう。往古はこの辺りが海岸線であった。 ・・・ 尾津から南に25キロほど、「吾が足は三重の勾の如く」と云った三重は四日市市辺りという。 四日市市采女町の旧東海道沿いに「杖衝坂」はある。 なるほど、この峠を上ると息が切れる。 松尾芭蕉が貞享四年(1687)、江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが、 急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。その時詠んだ季語のない句が 歩行ならば 杖つき坂を 落馬かな 宝暦六年(1756)、村田鵤州がここにその句碑を立てた。(写真右) ・・・ 坂を登り切ると、「血塚社」という小祠があり、「日本武尊御血塚」の石碑がある。 日本武尊はここで足の出血の手当てをしたというのだ。 伊吹山の麓から60キロ余歩いて来たことになる。血豆が潰れたのだろうか。 本当は伊吹山で敗れ、矢傷や刀傷を負っていたのではないだろうか。杖を衝かなければ歩けないほどの手負いでここまで来た。 ・・・・・ 傷の手当をして、また杖を突きながら能褒野まで来た。 もう身体が動かない。一歩も前に足が出ない。日本武尊は、その場に杖を放り投げ、座り込んでしまった。 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし 大和の国の山や川が目に浮んだ。妻や子どもたちの顔が次から次へと浮んでは消え、消えてはまた浮んだ。 愛しけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も 叔母からもらった大切な剣を、私は宮簀媛のもとに置いてきてしまった・・・。 孃子の 床の辺に 我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや 詠い終わると、しずかに息を引きとったのである。 ・・・・・ 三重県鈴鹿市長沢町に長瀬神社がある。日本武尊を祀る。 境内に、片歌の碑がある。明和七年(1771)建立という古碑である。 愛しけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も ・・・・・ 三重県亀山市田村町に、能褒野神社と能褒野陵がある。 宮内庁の管理する「公式」の能褒野陵ということである。明治12年当時の内務省がこの地を以って能褒野陵と定めた。 ・・・・・ 三重県鈴鹿市加佐登に、白鳥陵がある。 日本武尊の能褒野陵とする古墳で、東西78m、南北59m、高さ13mの県内最大の円墳である。 日本武尊がこの地で亡くなり葬ったところ白鳥となって大和に飛び去ったという伝えから白鳥塚と呼ばれている。 宮内庁の管理下にはなく素朴な墳墓であるが、ペットボトルのお茶が供えてあったり、それが一層日本武尊を偲ばせてくれる。 加佐登神社 白鳥陵のそばにあるこの神社は、日本武尊が死の間際まで持っていた笠と杖を神体としたのが始まりという。 明治より以前は御笠神社と称していた。境内には、日本武尊像がある。 日本武尊は、この地能褒野で亡くなった。御歳30。にしては、えらいじいさんやな。 ・・・・・ 名古屋市熱田区白鳥に、白鳥御陵がある。 熱田神宮の近くにある日本武尊の御陵といわれる白鳥御陵である。 宮簀媛を慕い白鳥となってこの熱田の宮に飛び来り、降り立ったところといわれる。 陵近くには、「断夫山古墳」という東海地方最大の前方後円墳がある。尾張氏首長の墓とされるが、 これが宮簀媛の墓ではと云われていて、傍に日本武尊も眠る。ふたりが並び眠る、このような想像はロマンがあっていい。
・・・・・ 日本武尊、白鳥となりて、能褒野の陵を出で、大和の国を指して飛びたまふ。 大和の琴弾原に停まれり。 また飛びて、河内に至り、古市邑に留る。 然して、遂に高く翔びて天に上りぬ。 ・・・ 奈良県御所市冨田に、琴弾原白鳥陵がある。 大阪府羽曳野市白鳥に、白鳥御陵がある。 ・・・・・ 異伝 滋賀県東近江市(旧・永源寺町)に白鳥神社がある。それも一画に集中して4社もある。 いずれも日本武尊を祭神とし、後にそれぞれに分祀されたものであろう。
高木町・白鳥神社の社伝に、 古、日本武尊、此地に薨去あり、依て当社に祀る。高塚はその葬送の地なり、とある。 近江市(永源寺)は、鈴鹿山系の西麓に位置し、上記した伊吹山から能褒野へのルートから外れて20キロほどの距離にある。 この異伝、日本武尊は当芸から能褒野に向わず、いっきに鈴鹿山脈を越え、近江平野に向ったというのだろうか。 大和への道のりは険しくても、こちらの方が短いとも思われる。 また、もっと粗っぽく想像すれば、 日本武尊は、伊吹山から近江国に入り、大和国へ向ったとも考えられないだろうか。 今風にいえば、関が原から第二名神に向わず、名神高速道路の道筋である。 ・・・・・・・ 『古事記』 其地より発たして、当芸野の上に到りましし時、詔りたまひしく、「吾が心、恒に虚より翔り行かむと念ひつ。然るに今吾が足得歩まず、当芸当芸斯玖成りぬ。」とのりたまひき。故、其地を号けて当芸と謂ふ。其地より差少し幸行でますに、甚疲れませるに因りて、御杖を衝きて稍に歩みたまひき。故、其地を号けて杖衝坂と謂ふ。尾津の前の一つ松の許に到り坐ししに、先に御食したまひし時、其地に忘れたまひし御刀、失せずて猶有りき。爾に御歌曰みしたまひしく、 尾張に 直に向へる 尾津の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 大刀佩けましを 衣著せましを 一つ松あせを とうたひたまひき。其地より幸でまして、三重村に到りましし時、亦詔りたまひしく、「吾が足は三重の勾の如くして甚疲れたり。」とのりたまひき。故、其地を号けて三重と謂ふ。其れより幸行でまして、能煩野に到りましし時、国を思ひて歌曰ひたまひしく、 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし とうたひたまひき。又歌曰ひたまひしく、 命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白梼が葉を 髻華に插せ その子 とうたひたまひき。此の歌は国思ひ歌なり。又歌曰ひたまひしく、 愛しけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も とうたひたまひき。此は片歌なり。此の時御病甚急かになりぬ。爾に御歌曰みしたまひしく、 孃子の 床の辺に 我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや と歌ひ竟ふる即ち崩りましき。爾に驛使を貢上りき。 是に倭に坐す后等及御子等、諸下り到りて、御陵を作り、即ち其地の那豆岐田に匍匐ひ廻りて、哭為して歌曰ひたまひしく、 なづきの田の 稲幹に 稲幹に 匍ひ廻ろふ 野老蔓 とうたひたまひき。是に八尋白智鳥に化りて、天に翔りて浜に向きて飛び行でましき。爾に其の后及御子等、其の小竹の苅杙に、足切り破れども、其の痛きを忘れて哭きて追ひたまひき。此の時に歌曰ひたまひしく、 浅小竹原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな とうたひたまひき。又其の海塩に入りて、那豆美行きましし時に、歌曰ひたまひしく、 海處行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海處はいさよふ とうたひたまひき。又飛びて其の礒に居たまひし時に、歌曰ひたまひしく、 浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ とうたひたまひき。是の四歌は、皆其の御葬に歌ひき。故、今に至るまで其の歌は、天皇の大御葬に歌ふなり。故、其の国より飛び翔り行きて、河内国の志幾に留まりましき。故、其地に御陵を作りて鎮まり坐さしめき。即ち其の御陵を号けて、白鳥の御陵と謂ふ。然るに亦其地より更に天に翔りて飛び行でましき。凡そ此の倭建命、国を平けに廻り行でましし時、久米直の祖、名は七拳脛、恒に膳夫と為て、従ひ仕へ奉りき。 ・・・ 『日本書紀』 日本武尊、更尾張に還りまして、即ち尾張氏の女宮簀媛を娶りて、淹しく留りて月を踰ぬ。是に、近江の五十葺山に荒ぶる神有ることを聞きたまひて、即ち剣を解きて宮簀媛が家に置きて、徒に行でます。膽吹山に至るに、山の神、大蛇に化りて道に当れり。爰に日本武尊、主神の蛇と化れるを知らずして謂はく、「是の大蛇は、必に荒ぶる神の使ならむ。既に主神を殺すこと得てば、其の使者は豈求むるに足らむや」とのたまふ。因りて、蛇を跨えて猶行でます。時に山の神、雲を興して氷を零らしむ。峯霧り谷?くして、復行くべき路無し。乃ち 遑ひて其の跋渉まむ所を知えず。然るに霧を凌ぎて強に行く。方に僅に出づること得つ。猶失意せること酔へるが如し。因りて山の下の泉の側に居して、乃ち其の水を飮して醒めぬ。故、其の泉を号けて、居醒泉と曰ふ。日本武尊、是に、始めて痛身有り。然して稍に起ちて、尾張に還ります。爰に宮簀媛が家に入らずして、便に伊勢に移りて、尾津に到りたまふ。昔に日本武尊、東に向でましし歳に、尾津浜に停りて進食す。是の時に、一の剣を解きて、松の下に置きたまふ。遂に忘れて去でましき。今此に至るに、是の剣猶存り。故、歌して曰はく、 尾張に 直に向へる 一つ松あはれ 一つ松 人にありせば 衣著せましを 太刀佩けましを 能褒野に逮りて、痛甚なり。則ち俘にせる蝦夷等を以て、神宮に獻る。因りて吉備武彦を遣して、天皇に奏して曰したまはく、「臣、命を天朝受りて、遠く東の夷を征つ。則ち神の恩を被り、皇の威に頼りて、叛く者、罪に伏ひ、荒ぶる神、自づからに、調ひぬ。是を以て、甲を巻き、戈を?めて、?悌けて還れり。冀はくは、曷の日曷の時にか天朝に復命さむと。然るに天命忽に至りて、隙駟停り難し。是を以て、独曠野に臥す。誰にも語ること無し。豈身の亡びむことを惜まむや。唯愁ふらくは、面へまつらずなりぬることのみ」とまうしたまふ。既にして能褒野に崩りましぬ。時に年三十。天皇聞しめして、寝、席安からむや。食、味甘からず。昼夜喉咽びて、泣ち悲びたまひて??ちたまふ。因りて、大きに歎きて曰はく、「我が子小碓王、昔熊襲の叛きし日に、未だ総角にも及らぬに、久に征伐に煩ひ、既にして、恆に左右に在りて朕が不及を補ふ。然るに東の夷騷き動みて、討たしむる者勿し。愛を忍びて賊の境に入らしむ。一日も顧びずといふこと無し。是を以て、朝夕に進退ひて、還る日を佇ちて待つ。何の禍ぞも、何の罪ぞも、不意之間、我が子を倏亡すこと。今より以後、誰人と與にか鴻業を経綸めむ」とのたまふ。即ち群卿に詔し百寮に命せて、仍りて、伊勢国の能褒野陵に葬りまつる。時に日本武尊、白鳥と化りたまひて、陵より出で、倭国を指して、飛びたまふ。群臣等、因りて、其の棺?を開きて視たてまつれば、明衣のみ空しく留りて、屍骨は無し。是に、使者を遣して白鳥を追ひ尋めぬ。則ち倭の琴弾原に停れり。仍りて其の處に陵を造る。白鳥、更飛びて河内に至りて、旧市邑に留る。亦其の處に陵を作る。故、時人、是の三の陵を号けて、白鳥陵と曰ふ。然して遂に高く翔びて天に上りぬ。徒に衣冠を葬めまつる。因りて功名を録へむとして、即ち武部を定む。是歳、天皇踐祚四十三年なり。 |
記紀の旅
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