大帯日子淤斯呂和気天皇(大足彦忍代別天皇) 景行天皇

日本武尊

東国

日本武尊、発路したまふ

日本武尊(倭建命)は、東の荒ぶる神らを征伐するため大和を出発。

まず、伊勢神宮に立ち寄り、倭姫命に会って、

「叔母ちゃん聞いて。おやじ(景行天皇)は、西の熊襲を討ってまだ疲れもとれてへんおれに、今度は東の蝦夷を討てという。」

「きっと、おれに死ねとゆうことや」と、泣きながら訴えた。

「まあそう云わんと。お兄ちゃんもそう悪い人やない、ちょっと女好きやけど。」

「あんたがこの国で一番強いんやから。日本武尊ってゆうやんか。兄ちゃん、あんたを頼ってるんや」

「気をつけてがんばりや」と、草薙の剣と火打石の入った袋をくれた。

・・・

尾張に着いて、宮簀媛に出会った。嫁に欲しいと思ったけど、帰ってからにしようと約束だけして旅立った。

相模国に着いて(『古事記』の倭建命はうっかり勘違いしてる。『日本書紀』に駿河国とある。これが正しい。)

従順やと思ったやつに騙されて、草原で火をつけられ焼き殺されそうになった。

叔母ちゃんありがたい、もらった草薙の剣で周りの草木を薙ぎ倒し、火打石でこちらから火を放ってようやくに難を逃れた。

コノヤロー、悪者全員を切り倒し、火をつけて焼き殺した。だからこの地を焼津という。

静岡県焼津市焼津に、焼津神社がある。境内に、上の日本武尊の像がある。

走水の海(浦賀水道)を渡ろうとした。向こうに上総の国(房総半島)が見える。

「なあんや、えらい近いやんか。かんたんに渡れるで」

船が沖まで出てみると、突然の大嵐、大波で船は沈没しそうになってしまった。

嫁さんの弟橘媛が云った。

「お国のために、あなたの命はたいせつ、海の神に私を捧げてください。きっと波は静まるでしょう。」

歌を詠って、海の中に消えた。

さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

人身御供や。ええ女房やけど、めちゃ可哀そう、涙・涙のシーンである。かわいい女房を失ってしまった。

・・・

神奈川県横須賀市走水に、走水神社がある。弟橘媛の詠んだ歌碑がある。

  

社務所でいただいた写真に、

七日の後、弟橘媛の櫛が海辺に流れ着いた。それを埋めて御陵を造ったという。

また、小袖が磯辺に漂い、これを取上げ山頂に祀ったという。その海岸を袖ヶ浦と云う。

神奈川県中郡二宮町山西の吾妻神社である。祭神は弟橘媛命と日本武尊。

吾妻とは、もちろん日本武尊が弟橘媛のことをいったのであるが、

東国の蝦夷を征伐しての帰路、足柄山の峠で、後の相模湾を振り返って弟橘媛のことを偲んだ。

悲しくて涙しながら、「阿豆麻波夜あづまはや」と三回大声で叫んだ。

「吾妻よ!・・・・・」

以後、足柄山から東を「東国あづまのくに」という。

この話、『古事記』は足柄峠のことになっているけど、『日本書紀』は碓氷峠とされる。

 碓氷峠から東国を望む

『日本書紀』に、

碓日嶺に登りて、東南を望りて三たび歎きて曰はく、「吾嬬はや」とのたまふ。故因りて山の東の諸国を号けて、吾嬬国と曰ふ。

・・・・・

峠を越えて、甲斐の国に入り、酒折宮で休息をとった。

日本武尊が歌を詠んで、

新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる (常陸の新治や筑波を過ぎて、幾夜旅寝をしたことだろう)

連れの仲間はだあれも続けて歌で詠めなかったけれど、夜警の火を焚く老人が、

かがなべて 夜には九夜 日には十日を (日数を重ねて、夜は九夜、日では十日になりましょう)

と、詠った。この老人をほめて、東の国造とした。

山梨県甲府市酒折に、酒折神社がある。

境内には、酒折宮を讃える石碑が立つ。

山県大弐の酒折詞碑と平田篤胤の酒折宮寿詞碑であるが、全部漢字の碑文で、読んでる時間ないし、ほんとは読めないし。

神社の裏山に上ると、中腹に、日本武尊と火焚きじいさんの歌碑がある。

ふたりが続けて歌を詠んだから、これを連歌の始まりとされる。

新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる かがなべて 夜には九夜 日には十日を

山梨県には、あちこちに日本武尊の故地があるようで、

甲州市塩山小屋敷の松尾神社には「褥塚碑」があり、その摂社熊野神社が柿畑の中にあって、「御箸杉碑」がある。

褥塚とは、ここでキャンプのテント張ったということ。御箸杉とは、ここで弁当食べてその箸を地に突き刺したら大きな杉の木になったということ。

・・・・・

「甲斐の国より信濃の国に越えて、乃ち信濃の坂の神を言向けて、」

長野県阿智村園原に、神坂峠があり、その登り口に御坂神社がある。「日本武尊駐蹕之舊跡」という難しい漢字の碑がある。

  

境内には、日本武尊腰掛石もある。

この石に腰掛けて、握り飯を食べながら、ここを越えると美濃、そして婚約者の宮簀姫が待つ尾張だと浮き浮き気分。

・・・・・

美濃から尾張への国境に内津峠がある。内津うつつ神社があって、その社伝に、

日本武尊は熱田の宮で、尾張の祖といわれる建稲種命に会い、副将軍とし、その妹宮簀姫命と婚約し、東国の平定に出かけた。

平定の終わった帰り道、日本武尊は、信州から美濃を通って尾張の国境内津峠にさしかかった。

その時東海道を帰った建稲種命が駿河の海で水死したことを従者の久米八腹が早馬で知らせてきた。

これを聞いた日本武尊は、「あの元気な稲種が…」と絶句し、しばらくして「ああ現哉、現哉(うつつかな、うつつかな)」と嘆き悲しんだという。

内津の地名が残り、命を祀る神社も内々神社と呼ばれる。

・・・・・

もう少しで簀姫命に逢えるんだけど、さすがに日本武尊も疲れた。

こんなところにも、「日本武尊腰掛岩」がある。

名古屋市中村区岩塚町の七所神社境内に、

・・・・・

長い東征の旅を終え、日本武尊はようやく尾張に戻った。

名古屋市緑区大高町に、氷上姉子神社がある。

社伝に云う。

社は、古代尾張の開拓神であった(の天火明命の子孫で、当時の尾張国造として、氷上の地を本拠としていた乎止与命(の館跡に、

宮簀媛命()を祭神として仲哀天皇四年に創建された。

祭神の宮簀媛命は乎止与命の女で、日本武尊が東国平定から帰途この地に留まった際に結婚し、

尊が亡くなった後草薙神剣を奉斎守護し、やがて熱田神宮創祀への道を開いた。そのため、この社を熱田神宮の元宮と云う。

・・・

氷上姉子神社のある火上山の山頂に元宮がある。ここが館跡という。

「倭武天皇妃宮簀媛命宅址」碑が立ち、祠が祀られている。

 

日本武尊は、東征の後、この火上山にあった館で、宮簀媛としばらく結婚生活をおくったという。

「ちょっと伊吹山の神を懲らしめてくる」と、草薙の剣を媛に預けて出かけた。それが永久の別れになってしまった。

・・・・・・・

『古事記』

冬十月の壬子の朔癸丑に、日本武尊、発路したまふ。戊午に、道を抂りて伊勢神宮を拜む。仍りて倭姫命に辞して曰はく、「今天皇が命を被りて、東に征きて諸の叛く者どもを誅へむとす。故、辞す」とのたまふ。是に、倭姫命、草薙剣を取りて、日本武尊に授けて曰はく、「慎め。な怠りそ」とのたまふ。
是歳、日本武尊、初めて駿河に至る。其の處の賊、陽り従ひて、欺きて曰さく、「是の野に、麋鹿甚だ多し。気は朝霧の如く、足は茂林の如し。臨して狩りたまへ」とまうす。日本武尊、其の言を信けたまひて、野の中に入りて覓獣したまふ。賊、王を殺さむといふ情有りて、其の野に放火焼)。王、欺かれぬと知しめして、則ち燧を以て火を出して、向焼けて免るること得たまふ。一に云はく、王の所佩せる剣、叢雲、自ら抽けて、王の傍の草を薙ぎ攘ふ。是に因りて免るること得たまふ。故、其の剣を号けて草薙と曰ふといふ。王の曰はく、「殆に欺かれぬ」とのたまふ。則ち悉に其の賊衆を焚きて滅しつ。故、其の處を号けて焼津と曰ふ。亦相模に進して、上総に往せむとす。海を望りて高言して曰はく、「是小き海のみ。立跳にも渡りつべし」とのたまふ。乃ち海中に至りて、暴風忽に起りて、王船漂蕩ひて、え渡らず。時に王に従ひまつる妾有り。弟橘媛と曰ふ。穗積氏忍山宿禰の女なり。王に啓して曰さく、「今風起き浪泌くして、王船沒まむとす。是必に海神の心なり。願はくは賎しき妾が身を、王の命に贖へて海に入らむ」とまうす。言訖りて、乃瀾を披けて入りぬ。暴風即ち止みぬ。船、岸に著くこと得たり。故、時人、其の海を号けて、馳水と曰ふ。
爰に日本武尊、則ち上総より転りて、陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路より葦浦に廻る。横に玉浦を渡りて、蝦夷の境に至る。蝦夷の賊首、嶋津神・国津神等、竹水門に屯みて距かむとす。然るに遥に王船を視りて、豫め其の威勢を怖ぢて、心の裏にえ勝ちまつるまじきことを知りて、悉に弓矢を捨てて、望み拜みて曰さく、「仰ぎて君が容を視れば、人倫に秀れたまへり。若し神か。姓名を知らむ」とまうす。王、対へて曰はく、「吾は是、現人神の子なり。」とのたまふ。是に、蝦夷等、悉に慄りて、則ち裳を?げ、浪を披けて、自ら王船を扶けて岸に著く。仍りて面縛ひて服罪ふ。故、其の罪を免したまふ。因りて、其の首帥を俘にして、従身へまつらしむ。蝦夷既に平けて、日高見国より還りて、西南、常陸を歴て、甲斐国に至りて、酒折宮に居します。時に挙燭して進食す。是の夜、歌を以て侍者に問ひて曰はく、
  新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
諸の侍者、え答へ言さず。時に秉燭者有り。王の歌の末に続けて、歌して曰さく、
  日日並べて 夜には九夜 日には十日を
即秉燭人の聰を美めたまひて、敦く賞す。則ち是の宮に居しまして、靫部を以て大伴連の遠祖武日に賜ふ。
是に、日本武尊の曰はく、「蝦夷の凶しき首、咸に其の辜に伏ひぬ。唯信濃国・越国のみ、頗未だ化に従はず」とのたまふ。則ち甲斐より北、武蔵・上野を転歴りて、西碓日坂に逮ります。時に日本武尊、毎に弟橘媛を顧びたまふ情有します。故、碓日嶺に登りて、東南を望りて三たび歎きて曰はく、「吾嬬はや」とのたまふ。故因りて山の東の諸国を号けて、吾嬬国と曰ふ。是に、道を分りて、吉備武彦を越国に遣して、其の地形の嶮易及び人民の順不を監察しむ。則ち日本武尊、信濃に進入しぬ。是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。然るに日本武尊、烟を披け、霧を凌ぎて、遥に大山を?りたまふ。既に峯に逮りて、飢れたまふ。山の中に食す。山の神、王を苦びしめむとして、白き鹿と化りて王の前に立つ。王異びたまひて、一箇蒜を以て白き鹿に弾けつ。則ち眼に中りて殺しつ。爰に王、忽に道を失ひて、出づる所を知らず。時に白き狗、自づからに来て、王を導きまつる状有り。狗に隨ひて行でまして、美濃に出づること得つ。吉備武彦、越より出でて遇ひぬ。是より先に、信濃坂を度る者、多に神の気を得て?え臥せり。但白き鹿を殺したまひしより後に、是の山を踰ゆる者は、蒜を嚼みて人及び牛馬に塗る。自づからに神の気に中らず。
日本武尊、更尾張に還りまして、即ち尾張氏の女宮簀媛を娶りて、淹しく留りて月を踰ぬ。是に、近江の五十葺山に荒ぶる神有ることを聞きたまひて、即ち剣を解きて宮簀媛が家に置きて、徒に行でます。

・・・

『日本書紀』

天皇、亦頻きて倭建命に詔りたまひしく、「東の方十二道の荒夫琉神、及摩都楼波奴人等を言向け和平せ。」とのりたまひて、吉備臣等の祖、名は御?友耳建日子を副へて遣はしし時、比比羅木の八尋矛を給ひき。故、命を受けて罷り行でましし時、伊勢の大御神宮に参入りて、神の朝廷を拜みて、即ち其の姨倭比売命に白したまひけらくは、「天皇既に吾死ねと思ほす所以か、何しかも西の方の悪しき人等を撃ちに遣はして、返り参上り来し間、未だ幾時も経らねば、軍衆を賜はずて、今更に東の方十二道の悪しき人等を平けに遣はすらむ。此れに因りて思惟へば、猶吾既に死ねと思ほし看すなり。」とまをしたまひて、患ひ泣きて罷ります時に、倭比売命、草那芸剱を賜ひ、亦御嚢を賜ひて、「若し急の事有らば、?の嚢の口を解きたまへ。」と詔りたまひき。
故、尾張国に到りて、尾張国造の祖、美夜受比売の家に入り坐しき。乃ち婚ひせむと思ほししかども、亦還り上らむ時に婚ひせむと思ほして、期り定めて東の国に幸でまして、悉に山河の荒ぶる神、及伏はぬ人等を言向け和平したまひき。故爾に相武国に到りましし時、其の国造詐りて白ししく、「此の野の中に大沼有り。是の沼の中に住める神、甚道速振る神なり。」とまをしき。是に其の神を看行はしに、其の野に入り坐しき。爾に其の国造、火を其の野に著けき。故、欺かえぬと知らして、其の姨倭比売命の給ひし嚢の口を解き開けて見たまへば、火打其の裏に有りき。是に先づ其の御刀以ちて草を苅り撥ひ、其の火打以ちて火を打ち出でて、向火を著けて焼き退けて、還り出でて皆其の国造等を切り滅して、即ち火を著けて焼きたまひき。故、今に焼遣と謂ふ。
其れより入り幸でまして、走水の海を渡りたまひし時、其の渡の神浪を興して、船を廻らして得進み渡りたまはざりき。爾に其の后、名は弟橘比売命白したまひしく、「妾、御子に易りて海の中に入らむ。御子は遣はさえし政を遂げて覆奏したまふべし。」とまをして、海に入りたまはむとする時に、菅畳八重、皮畳八重、?畳八重を波の上に敷きて、其の上に下り坐しき。是に其の暴浪自ら伏ぎて、御船得進みき。爾に其の后歌ひたまひしく、
さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
とうたひたまひき。故、七日の後、其の后の御櫛海辺に依りき。乃ち其の櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき。
其れより入り幸でまして、悉に荒夫琉蝦夷等を言け、亦山河の荒ぶる神等を平和して、還り上り幸でます時、足柄の坂本に到りて、御粮食す處に、其の坂の神、白き鹿に化りて来立ちき。爾に即ち其の咋ひ遣したまひし蒜の片端を以ちて、待ち打ちたまへば、其の目に中りて乃ち打ち殺したまひき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎かして、「阿豆麻波夜。」と詔云りたまひき。故、其の国を号けて阿豆麻と謂ふ。
即ち其の国より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時、歌曰ひたまひしく、
新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
とうたひたまひき。爾に其の御火焼の老人、御歌に続ぎて歌曰ひしく、
かがなべて 夜には九夜 日には十日を
とうたひき。是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の国造を給ひき。
其の国より科野国に越えて、乃ち科野の坂の神を言向けて、尾張国に還り来て、先の日に期りたまひし美夜受比売の許に入り坐しき。是に大御食獻りし時、其の美夜受比売、大御酒盞を捧げて獻りき。爾に美夜受比売、其れ意須比の襴に、月経著きたりき。故、其の月経を見て御歌曰みしたまひしく、
ひさかたの 天の香具山 利鎌に さ渡る鵠 弱細 手弱腕を 枕かむとは 我はすれど さ寝むとは 我は思へど 汝が著せる 襲の裾に 月立ちにけり
とうたひたまひき。爾に美夜受比売、御歌に答へて曰ひしく、
高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経往く 諾な諾な諾な 君待ち難に 我が著せる 襲の裾に 月立たなむよ
といひき。故爾に御合したまひて、其の御刀の草那芸剱を、其の美夜受比売の許に置きて、伊服岐能山の神を取りに幸行でましき。

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