大帯日子淤斯呂和気天皇(大足彦忍代別天皇) 景行天皇

桜井市穴師

纒向の日代宮

桜井市穴師の穴師坐兵主神社に向う途中の小道傍にこの景行天皇の日代宮跡碑はある。

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『古事記』によれば、

この天皇は奥さんも子どもも相当たくさんおられたようで、記録に残る男子は21王、記録に残らない男子は59王、あわせて80王という。

これは男子の人数で、同じくらい女子も生まれただろうから160人くらいの子持ちだった。

奥さんは何人いたのやろ。奥さんの名前、子どもの名前、みんな覚えるのも大変や。

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針間之伊那毘能大郎女(播磨稲日大郎姫)が生んだ子に、大碓命と小碓命の双子がいた。小碓命が有名な倭建命(日本武尊)である。

大碓小碓という名は、碓(臼)に因むらしい。

当時の出産の風習に、奥さんが難産のとき、夫は重たい臼を背負って家の周りをぐるぐると廻ったという。

奥さんが苦しんでいるのだから、男もいっしょになって苦しみを分けあうということやろか。

ところがひとりが生まれたのに、まだ奥さんは苦しんでいる。双子のふたり目や。

天皇は、いったん降ろした臼をまた背負ってぐるぐる廻る。

ようやくふたり目が生まれて、臼を降ろして、臼に向って「バカヤロー」って、きっと叫んだと思う。『紀』には、「碓に誥びたまひき」とある。

二回も臼を背負わされたから、生まれた双子に大碓小碓と名付けた。

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兵庫県加古川市加古川町大野に、日岡神社がある。

加古川の地は、播磨稲目太郎姫の故郷という。日岡神社近くには皇后の陵墓と言われる「日岡陵」がある。

日岡神社の由緒には、

皇后稲日太郎姫命のお産が難産で、当神社の主祭神天伊佐佐比古命が祖神に安産を願い、無事双子の皇子を出産された、とある。

なあんや、実家に帰って出産したんや。ほな、景行天皇は臼背負って、二回も背負って、文句ゆうたんと違うやん。

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泳宮 くくりのみや

四年春二月、景行天皇は美濃を訪ねた。

この地に弟媛というきれいな女性がいると聞いてさっそくその家に出かけた。それを知った弟媛は、竹薮に隠れて出てこない。

そうなるとどうしても会いたくなるのが人情で、天皇は泳宮を造って、しばらくここに住むことにした。

大きな池を造り、鯉を泳がせた。朝夕餌を与えて、それを見るのを楽しんだ。

うわさに聞いた弟媛、私もその鯉を見たいと人目を避けて池畔に立った。天皇の作戦通りだ。

「それそれ、来たぞ。弟媛、来たぞ」、ついに捕まってしまった。泳宮に連れては来たが、

「私は天皇に添うことはできません。私よりずうっときれいな姉を紹介しましょう」という。

その理由がすごい。「私は、夫婦のいとなみを好みません」、なかなかダイレクトに云えることではない。

姉の八坂入媛は、「天皇の奥さんになれるって素敵、私、嫁く嫁く」と喜んで妃になった。

とても仲の良い夫婦になった。だって、13人の皇子皇女が生まれたのだから。

泳宮は、『万葉集』にも詠われていて、

ももきね 美濃の国の 高北の 泳の宮に 日向ひに 行靡闕矣 ありと聞きて 我が行く道の 奥十山

美濃の山 靡けと 人は踏めども かく寄れと 人は突けども 心なき山の 奥十山 美濃の山 巻13−3242

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伝承地には、江戸中期に建立されたという万葉歌碑がある。「泳宮池」と標題して歌を刻載。

歌碑には地元の人々により花や供物がそなえられ、大切にされている。

故地には、残念ながら池は見当たらず、鯉の姿もない。

近くを木曽川の支流(久久利川)が流れる。もちろん、美人の姉妹にも会うことはできなかった。

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この天皇、よほど女性が好きだったとみえる。

八坂入媛を妃にしたのに、まだ美濃にはきれいな女性がいる。国造の娘、名は兄遠子・弟遠子という姉妹だ。

息子の大碓命に、どんな姉妹か行って見て来いと命令する。

大碓は、「おやじ、ええかげんにしいや。次から次へと。でも、ほんまにこの姉妹はきれいや。おれが欲しい、欲しい・・・」

悩んだ大碓、父親にはだまして別の女性を紹介し、この姉妹ふたりとも自分の妃にしてしまった。

親子で女性の奪い合い、あきれる話やけど、天皇、にせものには手も出さず、「大碓を恨みたまふ」という。

160人も子どもができるほど妃がいても、それでもこんな親子関係、ほんまにあきれてしまう。

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弟の小碓命は、えらい強い勇ましい男で、

天皇に、九州の熊襲を征伐して来いと命じられ、16才の若者、女装して敵を欺いたりしてなんなく撃ち滅ぼしてしまった。

日本武尊という名を、この時敵の大将から付けてもらった。

勇んで帰って来ると、今度は東の蝦夷を征伐して来いと天皇は命じた。

日本武尊、「おやじは、おれを殺そうと思ってるんとちゃうやろか」と疑い、「今度は、兄貴の大碓命が行くべきや」と提案をする。

ところが大碓命、怖じて草の中に逃げ隠れたという。めちゃ弱虫や。

親父は例の女性問題のこともあって、疎んじて、

「大碓、もうお前にはなんも頼まん。美濃の国をやるから、ずうっとそこに住め。顔も見たくない」、勘当同然の仕打ち。

大碓命にとってはこの方がよかったのではないかな。

戦は嫌いやし、きれいな嫁さんふたりも美濃にいるし、子どももできたし、のんびりそこで暮らそう。

みんな、天皇の息子さんやゆうて、だいじにしてくれるし・・・。大碓命は、美濃で生涯を終えたようである。

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豊田市猿投町に、大碓命を祭神とする猿投神社があり、その背後の猿投山山頂には大碓命の御陵がある。

神社由緒に、

古来より左鎌を奉納して祈願する特殊な信仰がある。その由来には記録がないので判然としないが、古老の言い伝えによれば、

双子児の場合には一方が左遣いの名手であるという。

人々は大碓命が左遣いで、当時左鎌を用いて此の地方を開拓したという神徳を慕い、左鎌を奉納するようになったという。

その絵馬である。

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その後、景行天皇は、五十八年近江の国に来られて3年間、高穴穂宮におられたとある。

そして六十年この地で亡くなった。御年106才。

滋賀県大津市穴太に、高穴穂神社がある。

奈良県天理市渋谷町に、景行天皇山辺道上陵がある。

 

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『古事記』

大帶日子淤斯呂和気天皇、纒向の日代宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之伊那毘能大郎女を娶して、生みませる御子、櫛角別王。次に大碓命。次に小碓命、亦の名は倭男具那命。次に倭根子命。次に神櫛王。五柱。又八尺入日子命の女、八坂之入日売命を娶して、生みませる御子、若帶日子命。次に五百木之入日子命。次押別命。次に五百木之入日売命。又妾の子、豊戸別王。次に沼代郎女。又妾の子、沼名木郎女。次に香余理比売命。次に若木之入日子王。次に吉備之兄日子王。次に高木比売命。次に弟比売命。又日向の美波迦斯毘売を娶して、生みませる御子、豊国別王。又伊那毘能大郎女の弟、伊那毘能若郎女を娶して、生みませる御子、真若王。次に日子人之大兄王。又倭建命の曽孫、は須売伊呂大中日子王の女、訶具漏比売を娶して、生みませる御子、大枝王。凡そ此の大帶日子天皇の御子等、録せるは廿一王、入れ記さざるは五十九王、并せて八十王の中に、若帶日子命と倭建命、亦五百木之入日子命と此の三王は、太子の名を負ひたまひ、其れより余の七十七王は、悉に国国の国造、亦和気、及稲置、縣主に別け賜ひき。故、若帶日子命は、天の下治らしめしき。小碓命は、東西の荒ぶる神、及伏はぬ人等を平けたまひき。次に櫛角別王は、茨田の下の連等の祖。次に大碓命は、守君、大田君、島田君の祖。次に神櫛王は、木国の酒部の阿比古、宇陀の酒部の祖。次に豊国別王は、日向国造の祖なり。

是に天皇、三野国造の祖、大根王の女、名は兄比売、弟比売の二りの孃子、其の容姿麗美しと聞し看し定めて、其の御子大碓命を遣はして喚上げたまひき。故、其の遣はさえし大碓命、召上げずて、即ち己れ自ら其の二りの孃子と婚ひして、更に他し女人を求めて、詐りて其の孃女と名づけて貢上りき。是に天皇、其の他し女なることを知らして、恒に長眼を経しめ、亦婚ひしたまはずて、惚しめたまひき。故、其の大碓命、兄比売を娶して生める子、押黒之兄日子王。此は三野の宇泥須和気の祖。亦弟比売を娶して生める子、押黒弟日子王。此は牟宜都君等の祖。此の御世に、田部を定め、又東の淡水門を定め、又膳の大伴部を定め、又倭の屯家を定め、又坂手池を作りて、即ち竹を其の堤に植ゑたまひき。

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『日本書紀』

大足彦忍代別天皇は、活目入彦五十狭茅天皇の第三子なり。母の皇后をば日葉洲媛命と曰す。丹波道主王の女なり。活目入彦五十狭茅天皇の三十七年に、立ちて皇太子と為りたまふ。時に年二十一。
九十九年の春二月に、活目入彦五十狭茅天皇崩りましぬ。
元年の秋七月の己巳の朔己卯に、太子、即天皇位す。因りて元を改む。是年、太歳辛未。
二年の春三月の丙寅の朔戊辰に、播磨稲日大郎姫、一に云はく、稲日稚郎姫といふ。を立てて皇后とす。后、二の男を生れます。第一をば大碓皇子と曰す。第二をば小碓尊と曰す。一書に云はく、皇后、三の男を生れます。其の第三を稚倭根子皇子と曰すといふ。其の大碓皇子・小碓尊は、一日に同じ胞にして双に生れませり。天皇異びたまひて、則ち碓に誥びたまひき。故因りて、其の二の王を号けて、大碓・小碓と曰ふ。是の小碓尊は、亦の名は日本童男。亦は日本武尊と曰す。幼くして雄略しき気有します。壮に及りて容貌魁偉し。身長一丈、力能く鼎を扛げたまふ。
四年の春二月の甲寅の朔甲子に、天皇、美濃に幸す。左右奏して言さく、「?の国に佳人有り。弟媛と曰す。容姿端正し。八坂入彦皇子の女なり」とまうす。天皇、得て妃とせむと欲して、弟媛が家に幸す。弟媛、乗輿車駕すと聞きて、則ち竹林に隠る。是に、天皇、弟媛を至らしめむと権りて、泳宮に居します。鯉魚を池に浮ちて、朝夕に臨視して戯遊びたまふ。時に弟媛、其の鯉魚の遊ぶを見むと欲して、密に来でて池を臨す。天皇、則ち留めて通しつ。爰に弟媛以為るに、夫婦の道は、古も今も達へる則なり。然るを吾にして不便ず。則ち天皇に請して曰さく、「妾、性交接の道を欲はず。今皇命の威きに勝へずして、暫く帷幕の中に納されたり。然るに意に快びざる所なり。亦形姿穢陋し。久しく掖庭に陪へまつるに堪へじ。唯妾が姉有り。名を八坂入媛と曰す。容姿麗美し。志亦貞潔し。後宮に納れたまへ」とまうす。天皇聴したまふ。仍りて八坂入媛を喚して妃とす。七の男と六の女とを生めり。第一を稚足彦天皇と曰す。第二を五百城入彦皇子と曰す。第三を忍之別皇子と曰す。第四を稚倭根子皇子と曰す。第五を大酢別皇子と曰す。第六を渟熨斗皇女と曰す。第七を渟名城皇女と曰す。第八を五百城入姫皇女と曰す。第九を?依姫皇女と曰す。第十を五十狭城入彦皇子と曰す。第十一を吉備兄彦皇子と曰す。第十二を高城入姫皇女と曰す。第十三を弟姫皇女と曰す。又妃三尾氏磐城別の妹水歯郎媛、五百野皇女を生めり。次妃五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。其の兄神櫛皇子は、是讃岐国造の始祖なり。弟稲背入彦皇子は、是播磨別の始祖なり。次妃阿倍氏木事の女高田媛、武国凝別皇子を生めり。是伊豫国の御村別の始祖なり。次妃日向髮長大田根、日向襲津彦皇子を生めり。是阿牟君の始祖なり。次妃襲武媛、国乳別皇子と国背別皇子、一に云はく、宮道別皇子といふ。と豊戸別皇子とを生めり。其の兄国乳別皇子は、是水沼別の始祖なり。弟豊戸別皇子は、是火国別の始祖なり。夫れ天皇の男女、前後并せて八十の子まします。然るに、日本武尊と稚足彦天皇と五百城入彦皇子とを除きての外七十余の子は、皆国郡に封させて、各其の国に如かしむ。故、今の時に当りて、諸国の別と謂へるは、即ち其の別王の苗裔なり。
是の月に、天皇、美濃国造、名は神骨が女、兄の名は兄遠子、弟の名は弟遠子、並に有国色しと聞しめして、則ち大碓命を遣して、其の婦女の容姿を察しめたまふ。時に大碓命、便ち密に通けて復命さず。是に由りて、大碓命を恨みたまふ。
冬十一月の庚辰の朔に、乗輿、美濃より還ります。則ち更纏向に都つくる。是を日代宮と謂す。

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