欠史八代

御陵

奈良県

欠史八代とは、

初代神武天皇に続く第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八代のこと、

『古事記』も『日本書紀』も、この八代の天皇のことは、系譜は記すけど、事績をまったく記さない。

だから欠史という。

・・・

たしかに、この天皇の奥さんはどこのだれで、子どもが何人いて、その内のだれが皇太子になって、

おやじの天皇が何歳で亡くなって、どこの陵に葬って、新しい天皇になった。

それだけしか記されていない。

なかには、天皇の甥っ子・姪っ子でこんなええ子もいるとも記されているが。

こんな偉い天皇やったとか、こんなええことしたんやとか、こんなもの作ったとか、なんにもない。

だから、ほんとは実在しないのに、架空の天皇を後の人が創作したという説が強い。

・・・

でも、天皇家ではないけれど、自分の家のこと考えてみて。

父はサラリーマンでした。母の田舎は滋賀県です。祖父は商売してました。おばあちゃんの田舎は福井県やった思います。

祖祖父は百姓やったと聞いてます。ひいおばあちゃんはどこの出身やろ、聞いてないなあ。

祖祖祖父、ひいひいおばあちゃん、なんも知らんわ。何してたんやろ、どこの出身やろ。

もっとも、うちは系譜を作るような家柄ではないが。

・・・

記録する文字もなかった時代のこと、何百年も前のことが天皇家とはいえ、詳細に分かると思いますか。

詳細に書かれてあればあるだけ、後の人の創意工夫が見え隠れする。

なんも特別なことがなかったからこそ、平和に累々と今につながっているんとちゃうんかなあ。

私がいて、父がいて、祖父がいて、祖祖父がいて、祖祖祖父がいて、祖祖祖祖父がいる。

欠史って、史料はないけど、だあれもいない空白の時代ではないはず。

・・・

この八代の御陵がちゃんと今に存在する。それが墳墓なのか、ただの雑木林なのか素人には確認できないが。

・・・・・・・

第二代綏靖天皇  神沼河耳命(記) 神渟名川耳天皇(紀)

「桃花鳥田丘上陵」 奈良県橿原市四条町

第三代安寧天皇  師木津日子玉手見命(記) 磯城津彦玉手看天皇(紀)

「畝傍山西南御陰井上陵」 奈良県橿原市吉田町

第四代懿徳天皇  大倭日子?友命(記) 大日本彦耜友天皇(紀)

「畝傍山南纖沙溪上陵」 奈良県橿原市西池尻町

第五代孝昭天皇  御眞津日子惠志泥命(記) 観松彦香殖稲天皇(紀)

「掖上博多山上陵」 奈良県御所市三室

第六代孝安天皇  大倭帯日子國押人命(記) 日本足彦国押人天皇(紀)

『日本書紀』に、二年の冬十月、都を室の地に遷す。是を秋津島宮と謂ふ。

御所市室の室八幡神社境内に、「室秋津島宮跡碑」が立つ。

「玉手丘上陵」 奈良県御所市玉手

第七代孝霊天皇  大倭根子日子賦斗邇命(記) 大日本根子彦太瓊天皇(紀)

「片丘馬坂陵」 奈良県北葛城郡王寺町本町

第八代孝元天皇  大倭根子日子國玖琉命(記) 大日本根子彦国牽天皇(紀)

「劔池嶋上陵」 奈良県橿原市石川町

第九代開化天皇  若倭根子日子大比毘毘命(記) 稚日本根子彦大日日天皇(紀)

「春日率川坂上陵」 奈良市油坂町

・・・・・・・

『古事記』

神沼河耳命、葛城の高岡宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、師木縣主の祖、河俣毘売を娶して生みませる御子、師木津日子玉手見命。一柱。天皇の御年、肆拾伍歳。御陵は衝田岡に在り。
師木津日子玉手見命、片塩の浮穴宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、河俣毘売の兄、縣主波延の女、阿久斗比売を娶して生みませる御子、常根津日子伊呂泥命。次に大倭日子?友命。次に師木津日子命。此の天皇の御子等、并せて三柱の中に、大倭日子 ?友命は、天の下治らしめしき。次に師木津日子命の子、二王坐しき。一りの子孫は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖。一りの子、和知都美命は、淡道の御井宮に坐しき。故、此の王、二りの女有りき。兄の名は縄伊呂泥。亦の名は意富夜麻登久邇阿礼比売命。弟の名は蝿伊呂杼なり。天皇の御年、肆拾玖歳。御陵は畝火山の美富登に在り。
大倭日子?友命、軽の境岡宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、師木縣主の祖、賦登麻和訶比売命、亦の名は飯日比売命を娶して、生みませる御子、御真津日子訶惠志泥命。次に多芸志比古命。二柱。故、御真津日子訶惠志泥命は、天の下治らしめしき。次に当芸志比古命は、血沼の別、多遅麻の竹別、葦井の稲置の祖。天皇の御年、肆拾伍歳。御陵は畝火山の真名子谷の上に在り。
御真津日子訶惠志泥命、葛城の掖上宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、尾張連の祖、奥津余曽の妹、名は余曽多本毘売命を娶して、生みませ御子、天押帶日子命。次に大倭帶日子国押人命。二柱。故、弟帶日子国忍人命は、天の下治らしめしき。兄天押帶日子命は、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢の飯高君、壹師君、近淡海国造の祖なり。天皇の御年、玖拾参歳。御陵は掖上の博多山の上に在り。
大倭帶日子国押人命、葛城の室の秋津島宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、姪忍鹿比売命を娶して、生みませる御子、大吉備諸進命。次に大倭根子日子賦斗邇命。二柱。故、大倭根子日子賦斗邇命は、天の下治らしめしき。天皇の御年、壹佰貳拾参歳。御陵は玉手の岡の上に在り。
大倭根子日子賦斗邇命、黒田の廬戸宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、十市縣主の祖、大目の女、名は細比売命を娶して、生みませる御子、大倭根子日子国玖琉命。一柱。又春日の千千速真若比売を娶して、生みませる御子、千千速比売命。一柱。又意富夜麻登玖邇阿礼比売命を娶して、生みませる御子、夜麻登登母母曽毘売命。次に日子刺肩別命。次に比古伊佐勢理毘古命、亦の名は大吉備津日子命。次に倭飛羽矢若屋比売。四柱。又其の阿礼比売命の弟、蝿伊呂杼を娶して、生みませる御子、日子寤間命。次に若日子建吉備津日子命。二柱。此の天皇の御子等、并せて八柱なり。男王五、女王三。故、大倭根子日子国玖琉命は、天の下治らしめしき。大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二柱相副ひて、針間の氷河の前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口と為て吉備国を言向け和したまひき。故、此の大吉備津日子命は、吉備の上つ道臣の祖なり。次に若日子建吉備津日子命は、吉備の下つ道臣、笠臣の祖。次に日子寤間命は、針間の牛鹿臣の祖なり。次に日子刺肩別命は、高志の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、角鹿の海直の祖なり。天皇の御年、壹佰陸歳。御陵は片岡の馬坂の上に在り。
大倭根子日子国玖琉命、軽の堺原宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、穗積臣等の祖、内色許男命の妹、内色許売命を娶して、生みませる御子、大毘古命。次に少名日子建猪心命。次に若倭根子日子大毘毘命。三柱。又内色許男命の女、伊迦賀色許売命を娶して、生みませる御子、比古布都押之信命。又河内の青玉の女、名は波邇夜須毘売を娶して、生みませる御子、建波邇夜須毘古命。一柱。此の天皇の御子等、并せて五柱なり。故、若倭根子日子大毘毘命は、天の下治らしめしき。其の兄大毘古命の子、建沼河別命は、阿部臣等の祖。次に比古伊那許士別命。此は膳臣の祖なり。比古布都押之信命、尾張連等の祖、竟富那毘の妹、葛城之高千那毘売を娶して、生める子、味師内宿禰。此は山代の内臣の祖なり。又木国造の祖、宇豆比古の妹、山下影日売を娶して、生める子、建内宿禰。此の建内宿禰の子、并せて九たり。男七、女二。波多八代宿禰は、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖なり。次に許勢小柄宿禰は、許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖なり。次に蘇賀石河宿禰は、蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣等の祖なり。次に平群都久宿禰は、平群臣、佐和良臣、馬御?連等の祖なり。次に木角宿禰は、木臣、都奴臣、坂本臣の祖。次に久米能摩伊刀比売。次に怒能伊呂比売。次に葛城の長江曽都毘古は、玉手臣、的臣、生江臣、阿芸那臣等の祖なり。又若子宿禰は、江野財臣の祖。此の天皇の御年、伍拾漆歳。御陵は剱池の中の岡の上に在り。

若倭根子日子大毘毘命、春日の伊邪河宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、旦波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命。一柱。又庶母伊迦賀色許売命を娶して、生みませる御子、御真木入日子印惠命。次に御真津比売命。二柱。又丸迩臣の祖、日子国意祁都命の妹、意祁都比売命を娶して、生みませる御子、日子坐王一柱。又葛城の垂見宿禰の女、?比売を娶して、生みませる御子、建豊波豆羅和気。一柱。此の天皇の御子等、并せて五柱なり。男王四、女王一。故、御真木入日子印惠命は、天の下治らしめしき。其の兄比古由牟須美王の子、大筒木垂根王。次に讃岐垂根王。二王。此の二王の女、五柱坐しき。次に日子坐王、山代の荏名津比売、亦の名は苅幡戸辨を娶して、生める子、大俣王。次に小俣王。次に志夫美宿禰王。三柱。又春日の建国勝戸売の女、名は沙本之大闇見戸売を娶して、生める子、沙本毘古王。次に袁邪本王。次に沙本毘売命、亦の名は佐波遅比売。此の沙本毘売命は、伊久米天皇の后と為りき。次に室毘古王。四柱。又近淡海の御上の祝が以ち伊都玖、天之御影神の女、息長水依比売を娶して、生める子は、丹波比古多多須美知能宇斯王。次に水之穗真若王。次に神大根王。亦の名は八瓜入日子王。次に水穗五百依比売。次に御井津比売。五柱。又其の母の弟袁祁都比売命を娶して、生める子、山代之大筒木真若王。次に比古意須王。次に伊理泥王。三柱。凡そ日子坐王の子、并せて十一王なり。故、兄大俣王の子、曙立王。次に菟上王。二柱。此の曙立王は、伊勢の品遅部君、伊勢の佐那造の祖。菟上王は、比売陀君の祖。次に小俣王は、当麻の勾君の祖。次に志夫美宿禰王は、佐佐君の祖なり。次に沙本毘古王は、日下部連、甲斐国造の祖。次に袁邪本王は、葛野の別、近淡海の蚊野の別の祖なり。次に室毘古王は、若狹の耳別の祖。其の美知能宇志王、丹波の河上の摩須郎女を娶して、生める子、比婆須比売命。次に真砥野比売命。次に弟比売命。次に朝廷別王。四柱。此の朝廷別王は、三川の穗別の祖。此の美知能宇斯王の弟、水穗真若王は、近淡海の安直の祖。次に神大根王は、三野国の本巣国造、長幡部連の祖。次に山代之大筒木真若王、同母弟伊理泥王の女、丹波能阿治佐波毘売を娶して、生める子、迦邇米雷王。此の王、丹波の遠津臣の女、名は高材比売を娶して、生める子、息長宿禰王。此の王、葛城の高額比売を娶して、生める子、息長帶比売命。次に虚空津比売命。次に息長日子王。三柱。此の王は、吉備の品遅君、針間の阿宗君の祖。又息長宿禰王、河俣稲依毘売を娶して、生める子、大多牟坂王。此は多遅摩国造の祖なり。上に謂へる建豊波豆羅和気王は、道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖なり。天皇の御年、陸拾参歳。御陵は伊邪河の坂の上に在り。

・・・

『日本書紀』

神渟名川耳天皇  綏靖天皇
神渟名川耳天皇は、神日本磐余彦天皇の第三子なり。母をば媛蹈鞴五十鈴媛命と曰す。事代主神の大女なり。天皇、風姿岐嶷なり。少くして雄抜しき気有します。壮に及りて容貌魁れて偉し。武芸人に過ぎたまふ。而して志尚沈毅し。四十八歳に至りて、神日本磐余彦天皇崩りましぬ。時に神渟名川耳尊、孝性、純に深くして、悲慕ぶこと已むこと無し。特に心を喪葬の事に留めたまへり。其の庶兄手研耳命、行年已長いて、久しく朝機を歴たり。故亦、事を委にて親らせしむ。然れども其の王、立操?懐、本より仁義に乖けり。遂に以て諒闇の際に、威福自由なり。禍心を苞ね蔵して、二の弟を害はむことを図る。時に、太歳己卯。
冬十一月に、神渟名川耳尊、兄の神八井耳命と、陰に其の志を知しめして、善く防きたまふ。山陵の事畢るに至りて、乃ち弓部稚彦をして弓を造らしめ、倭鍛部天津真浦をして真?の鏃を造らしめ、矢部をして箭を作がしむ。弓矢既に成りぬるに及りて、神渟名川耳尊、以て手研耳命を射殺さむと欲す。会、手研耳命、片丘の大■むろの中に有して、独大牀に臥します。時に渟名川耳尊、神八井耳命に謂りて曰はく、「今適其の時なり。夫れ、言は密を貴び、事は慎むべし。故に、我が陰謀に、本より預ふ者無し。今日の事は、唯吾と爾と自ら行ひたまはくのみ。吾当に先づ■むろの戸を開けむ。爾其れ射よ」とのたまふ。因りて相隨ひて進み入る。神渟名川耳尊、其の戸を突き開く。神八井耳命、則ち手脚戦慄きて、矢を放ること能はず。時に神渟名川耳尊、其の兄の所持たる弓矢を掣き取りて、手研耳命を射たまふ。一発に胸に中てつ。再発に背に中てて、遂に殺しつ。是に、神八井耳命、懣然ぢて自服ひぬ。神渟名川耳尊に譲りて曰さく、「吾は是乃の兄なれども、懦く弱くして不能致果からむ。今汝特挺れて神武くして、自ら元悪を誅ふ。宜なるかな、汝の天位に光臨みて、皇祖の業を承けむこと。吾は、当に汝の輔と為り、神祇を奉典らむ」とまうす。是即ち多臣が始祖なり。
元年の春正月の壬申の朔己卯に、神渟名川耳尊、即天皇位す。葛城に都つくる。是を高丘宮と謂ふ。皇后を尊びて皇太后と曰す。是年、太歳庚辰。
二年の春正月に、五十鈴依媛を立てて皇后とす。一書に云はく、磯城縣主の女川派媛なりといふ。一書に云はく、春日縣主大日諸が女糸織媛なりといふ。即ち天皇の姨なり。后、磯城津彦玉手看天皇を生れます。
四年の夏四月に、神八井耳命薨りましぬ。即ち畝傍山の北に葬る。
二十五年の春正月の壬午の朔戊子に、皇子磯城津彦玉手看尊を立てて、皇太子としたまふ。
三十三年の夏五月に、天皇不豫したまふ。癸酉に、崩りましぬ。時に年八十四。
磯城津彦玉手看天皇  安寧天皇
磯城津彦玉手看天皇は、神渟名川耳天皇の太子なり。母をば五十鈴依媛命と曰す。事代主神の少女なり。天皇、神渟名川耳天皇の二十五年を以て、立ちて皇太子と為りたまふ。年二十一。
三十三年の夏五月に、神渟名川耳天皇崩りましぬ。其の年の七月の癸亥の朔乙丑に、太子、即天皇位す。
元年の冬十月の丙戌の朔丙申に、神渟名川耳天皇を倭の桃花鳥田丘上陵に葬りまつる。皇后を尊びて皇太后と曰す。是年、太歳癸丑。
二年に都を片塩に遷す。是を浮孔宮と謂ふ。
三年の春正月の戊寅の朔壬午に、渟名底仲媛命、亦は渟名襲媛と曰す。を立てて、皇后とす。一書に云はく、磯城縣主葉江が女川津媛といふ。一書に云はく、大間宿祢が女糸井媛
といふ。是より先に、后、二の皇子を生れます。第一をば息石耳命と曰す。第二をば大日本彦耜友天皇と曰す。一に云はく、三の皇子を生れます。第一をば常津彦某兄と曰す。第二をば大日本彦耜友天皇と曰す。第三をば磯城津彦命と曰すといふ。
十一年の春正月の壬戌の朔に、大日本彦耜友尊を立てて、皇太子としたまふ。弟磯城津彦命は、是猪使連の始祖なり。
三十八年の冬十二月の庚戌の朔乙卯に、天皇崩りましぬ。時に年五十七。
大日本彦耜友天皇  懿徳天皇
大日本彦耜友天皇は、磯城津彦玉手看天皇の第二子なり。母をば渟名底仲媛命と曰す。事代主神の孫、鴨王の女なり。磯城津彦玉手看天皇の十一年の春正月の壬戌に、立ちて皇太子と為りたまふ。年十六。
三十八年の冬十二月に、磯城津彦玉手看天皇崩りましぬ。
元年の春二月の己酉の朔壬子に、皇太子、即天皇位す。
秋八月の丙午の朔に、磯城津彦玉手看天皇を畝傍山南御陰井上陵に葬りまつる。
九月の丙子の朔乙丑に、皇后を尊びて皇太后と曰す。是年、太歳辛卯。
二年春正月の甲戌の朔戊寅に、都を軽の地に遷す。是を曲峽宮と謂ふ。
二月の癸卯の朔癸丑に、天豊津媛命を立てて皇后とす。一に云はく、磯城縣主葉江が男弟猪手が女泉媛といふ。一に云はく、磯城縣主太真稚彦が女飯日媛といふ。后、観松彦香殖稲天皇を生れます。一に云はく、天皇の母弟武石彦奇友背命といふ。
二十二年の春二月の丁未の朔戊午に、観松彦香殖稲尊を立てて、皇太子としたまふ。年十八。
三十四年の秋九月の甲子の朔辛未に、天皇崩りましぬ。
観松彦香殖稲天皇  孝昭天皇
観松彦香殖稲天皇は、大日本彦耜友天皇の太子なり。母の皇后天豊津媛命は、息石耳命の女なり。天皇、大日本彦耜友天皇の二十二年の春二月の丁未の朔戊午を以て、立ちて皇太子と為りたまふ。
三十四年の秋九月に、大日本彦耜友天皇崩りましぬ。明年の冬十月の戊午の朔庚午に、大日本彦耜友天皇を畝傍山南繊沙谿上陵に葬りまつる。
元年の春正月の丙戌の朔甲午に、皇太子、即天皇位す。
夏四月の乙卯の朔己未に、皇后を尊びて皇太后と曰す。
秋七月に、都を掖上に遷す。是を池心宮と謂ふ。是年、太歳丙寅。
二十九年の春正月の甲辰の朔丙午に、世襲足媛を立てて皇后とす。一に云はく、磯城縣主葉江が女渟名城津媛といふ。一に云はく、倭国の豊秋狭太媛が女大井媛といふ。后、天足彦国押人命と日本足彦国押人天皇とを生れます。
六十八年の春正月の丁亥の朔庚子に、日本足彦国押人尊を立てて、皇太子としたまふ。年二十。天足彦国押人命は、此和珥臣等が始祖なり。
八十三年の秋八月の丁巳の朔辛酉に、天皇崩りましぬ。
日本足彦国押人天皇  孝安天皇
日本足彦国押人天皇は、観松彦香殖稲天皇の第二子なり。母をば世襲足媛と曰す。尾張連の遠祖瀛津世襲の妹なり。天皇、観松彦香殖稲天皇の六十八年の春正月を以て、立ちて皇太子と為りたまふ。
八十三年の秋八月に、観松彦香殖稲天皇崩りましぬ。
元年の春正月の乙酉の朔辛亥に、皇太子、即天皇位す。
秋八月の辛巳の朔に、皇后を尊びて皇太后と曰す。是年、太歳己丑。
二年の冬十月に、都を室の地に遷す。是を秋津嶋宮と謂ふ。
二十六年の春二月の己丑の朔壬寅に、姪押媛を立てて皇后とす。一に云はく、磯城縣主葉江が女長媛といふ。一に云はく、十市縣主五十坂彦女五十坂媛といふ。后)、大日本根子彦太瓊天皇を生れます。
三十八年の秋八月の丙子の朔己丑に、観松彦香殖稲天皇を掖上博多山上陵に葬りまたつる。
七十六年の春正月の己巳の朔癸酉に、大日本根子彦太瓊尊を立てて、皇太子としたまふ。年二十六。
百二年の春正月の戊戌の朔丙午に、天皇崩りましぬ。
大日本根子彦太瓊天皇  孝霊天皇
大日本根子彦太瓊天皇は、日本足彦国押人天皇の太子なり。母をば押媛と曰す。蓋し天足彦国押人命の女か。天皇、日本足彦国押人天皇の七十六年の春正月を以て、立ちて皇太子と為りたまふ。
百二年の春正月に、日本足彦国押人天皇崩りましぬ。
秋九月の甲午の朔丙午に、日本足彦国押人天皇を玉手丘上陵に葬りまつる。
冬十二月の癸亥の朔丙寅に、皇太子、都を黒田に遷す。是を廬戸宮と謂ふ。
元年の春正月の壬辰の朔癸卯に、太子、即天皇位す。皇后を尊びて皇太后と曰す。是年、太歳辛未。
二年の春二月の丙辰の朔丙寅に、細媛命を立てて、皇后とす。一に云はく、春日千乳早山香媛といふ。一に云はく、十市縣主等が祖が女真舌媛といふ。后、大日本根子彦国牽天皇を生れます。妃倭国香媛、亦の名は?某姉、倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命、亦の名は吉備津彦命、倭迹迹稚屋姫命を生む。亦妃?某弟、彦狭嶋命、稚武彦命を生む。弟稚武彦命は、是吉備臣の始祖なり。
三十六年の春正月の己亥の朔に、彦国牽尊を立てて皇太子としたまふ。
七十六年の春二月の丙午の朔癸丑に、天皇崩りましぬ。
大日本根子彦国牽天皇  孝元天皇
大日本根子彦国牽天皇は、大日本根子彦太瓊天皇の太子なり。母をば細媛命と曰す。磯城縣主大目が女なり。天皇、大日本根子彦太瓊天皇の三十六年の春正月を以て、立ちて皇太子と為りたまふ。年十九。
七十六年の春二月に、大日本根子彦太瓊天皇崩りましぬ。
元年の春正月の辛未の朔甲申に、太子、即天皇位す。皇后を尊びて皇太后と曰す。是年、太歳丁亥。
四年の春三月の甲申の朔甲午に、都を軽の地に遷す。是を境原宮と謂ふ。
六年の秋九月の戊戌の朔癸卯に、大日本根子彦太瓊天皇を片丘馬坂陵に葬りまつる。
七年の春二月の丙寅の朔丁卯に、欝色謎命を立てて皇后とす。后、二の男一の女を生れます。第一をば大彦命と曰す。第二をば稚日本根子彦大日日天皇と曰す。第三をば倭迹迹姫命と曰す。一に云はく、天皇の母弟少彦男心命といふ。妃伊香色謎命かがし、彦太忍信命を生む。次妃河内青玉繋が女埴安媛、武埴安彦命を生む。兄大彦命は、是阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣、凡て七族の始祖なり。彦太忍信命は、是武内宿禰の祖父なり。
二十二年の春正月の己巳の朔壬午に、稚日本根子彦大日日尊を立てて皇太子としたまふ。年十六。
五十七年の秋九月の壬申の朔癸酉に、大日本根子彦国牽天皇崩りましぬ。
稚日本根子彦大日日天皇  開化天皇
稚日本根子彦大日日天皇は、大日本根子彦国牽天皇の第二子なり。母をば、欝色謎命と曰す。穗積臣の遠祖欝色雄命の妹なり。天皇、大日本根子彦国牽天皇の二十二年の春正月を以て、立ちて皇太子と為りたまふ。年十六。
五十七年の秋九月に、大日本根子彦国牽天皇崩りましぬ。
冬十一月の辛未の朔壬午に、太子、即天皇位す。
元年の春正月の庚午の朔癸酉に、皇后を尊びて皇太后と曰す。
冬十月の丙申の朔戊申に、都を春日の地に遷す。是を率川宮と謂ふ。是年、太歳甲申。
五年の春二月の丁未の朔壬子に、大日本根子彦国牽天皇を剣池嶋上陵に葬りまつる。
六年の春正月の辛丑の朔甲寅に、伊香色謎命を立てて皇后とす。是は庶母なり。后、御間城入彦五十瓊殖天皇を生れます。是より先に、天皇、丹波竹野媛を納れて妃としたまふ。彦湯産隅命、亦の名は彦蒋簀命、を生む。次妃和珥臣の遠祖姥津命の妹姥津媛、彦坐王を生む。
二十八年の春正月の癸巳の朔丁酉に、御間城入彦尊を立てて、皇太子としたまふ。年十九。
六十年の夏四月の丙辰の朔甲子に、天皇崩りましぬ。
冬十月の癸丑の朔乙卯に、春日率川坂本陵に葬りまつる。一に云はく、坂上陵。時に年百十五といふ。

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