天豊財重日足姫天皇 皇極天皇

奈良県明日香村

乙巳の変

飛鳥板葺宮跡

皇極天皇四年(645)六月十二日、ここ飛鳥板葺宮で大事件は起こった。乙巳の変である。

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『日本書紀』皇極紀は、天変地異をいっぱい記す。

地震があった、雨がふらず旱魃になった、大雨が降って洪水になった、雹が降った。日蝕があった、池に虫がいっぱいで水が腐った。

その後に起こる大事件を暗示しているように。

皇極天皇は亡くなった舒明天皇から皇位を引継いだ女帝で、舒明天皇の奥さんだった。

即位したものの、政治の実権は大臣の蘇我蝦夷とその息子入鹿に握られていた。

入鹿は、「自ら国の政を執りて、威父より勝れり」とあり、入鹿親子の専横政治だった。

女帝はやはり中継ぎで、次の天皇は山背大兄皇子か古人大兄皇子かとされた。

山背大兄は聖徳太子の皇子で、蘇我馬子の娘・刀自古郎女が母である。(このこと、『日本書紀』は記さない)

古人大兄は舒明天皇の第一皇子で、蘇我馬子の娘・刀自古郎女の妹法提郎女が母である。

山背大兄と古人大兄は従兄弟同士である。どちらも蘇我の血を引く。

入鹿は、聖徳太子を父とする山背大兄の名声と人望を嫌ったようだ。入鹿が専横政治を維持するためには。

入鹿は古人大兄を天皇にしようとし、ついに山背大兄を攻め、斑鳩寺で家族全員が自害するという悲劇に追い込んだ。

斑鳩寺とは、法隆寺のこと。ここに、山背大兄の斑鳩宮も隣接していたようだ。

奈良県生駒郡斑鳩町に、法隆寺はある。

春秋、全国からの修学旅行生でいっぱい。

金堂の釈迦三尊も、宝物殿の玉虫厨子も、百済観音も、ぺちゃくちゃしべりながら通過していく。

しっかり観て帰るんだよ、といってもこの年令では無理だよね。私の修学旅行もまったく記憶にない。

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中臣鎌子(鎌足)が登場する。中臣氏は神祇祭祀を職とする。

蘇我親子の横暴をよしとしない鎌足、山背大兄亡きあと、皇極天皇の実弟軽皇子を推そうとした。

そのためには、実行力のある皇族を味方に組入れたかった。中大兄皇子である。有名な話がある。

法興寺(飛鳥寺)の槻の樹の下で打?をする中大兄、その皮鞋が脱げて鎌足の足元にころがった。

それを大切に拾って中大兄に手渡したのである。中大兄も跪いてありがとうと云った、とある。

ふたりの信頼関係が生まれ、これからの策謀を思案する仲になった。

・・・

法興寺の槻の下で、という。明日香村に飛鳥寺がある。

 

中大兄皇子は、ここ飛鳥寺で蹴鞠をしていた。この飛鳥寺、蘇我氏の氏寺として建てられた。

日本最古の本格的な寺院で、今も飛鳥大仏といわれる丈六釈迦像が金堂に坐す。

588年に建立が始まり、596年に塔が完成、606年鞍作鳥がこの釈迦像を造って安置したという。

当時は今よりもずうっと大きな伽藍だった。

一塔三金堂式で、高句麗の清岩里廃寺に伽藍配置が似ているとして、高句麗様式といわれた。

当時の伽藍復原図である。

ところが、2007年、韓国で大発見があった。

百済の都があった扶余の白馬河畔で、「王興寺跡」が発掘された。今も発掘が続けられているが、

どうも伽藍配置は、一塔三金堂様式らしい。

塔心部から舎利容器が見つかった。その容器に「丁酉二月十五日」と干支が記されている。

丁酉とは577年、日本に仏像を贈ってくれた聖明王の息子威徳王(昌王)の建立だった。

そして、この577年は敏達天皇六年であるが、『日本書紀』に、

「冬十一月、百済の王、経論若干巻、并て律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏師、六人を献る」とある。

王興寺を建立した造仏師が日本に来てくれた。日本で工人を育ててくれて、11年後の588年、飛鳥寺の建造が始まった。

飛鳥寺は百済様式というのが新しい見解である。

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蘇我親子は甘樫丘に豪邸を立てて住んでいた。豪邸というよりも、軍事要塞というべきかもしれない。

『日本書紀』は、

蝦夷と入鹿の家が甘樫丘に並び立ち、蝦夷の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門と呼び、まるで王宮である。

さらに、子どもたちを王子と呼ばせていたともある。

家の周りには城柵を作り、門の近くには兵器の倉庫が建てられ、つねに兵士を置いて防備したという。

飛鳥板葺宮から西方に甘樫丘が見える。

今、農婦が稲刈りをするのどかな田園風景であるが、

当時は、あの甘樫丘から蘇我親子がこの板葺宮を監視するように見下ろしていた。どっちが偉いのか分らへんがな。

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六月十二日、大極殿で、三韓の調を献ずる儀式が執り行われた。

常に太刀を離さない入鹿であったが、俳優わざひとを使ってうまく太刀を預かってしまった。

蘇我倉山田麻呂が上表文を読み上げた。

蘇我倉山田麻呂は蘇我氏ではあるが、宗家とは仲が悪く、中大兄に組みしていた。

上表文を読み上げると同時に、一気に入鹿に切りかかるという計画だったのに、一向にその様子がない。

倉山田麻呂の声がうわずり、手足が震えた。

いぶかる入鹿、「どうした。なぜ震えているのだ。」

「天皇の間近で恐れ多く、不覚にも足が震え、汗が流れ出るのだ・・・」

佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田のふたりが切りかかる段取になっていたが、ふたりは足がすくんで一歩も出ない。

「待てない」と感じた中大兄、自ら「やあ!」と声をあげて入鹿に向った。

子麻呂、網田のふたりも続いて、太刀をあげ切りかかった。

入鹿の頭に肩に刀は切り下ろされ、鮮血がほとばしった。立ち上がろうとした入鹿の足に一撃が入った。

その場に、入鹿は倒れた。

「天皇に尽くしてきた私が、私がなぜこのように切られるのだ・・・・・」、

皇極天皇、うろたえて、「いったいなにが起こってるの・・・」、

中大兄、「この入鹿、天皇家を傾け、天皇位に取って替ろうとしている。だから、成敗した」、

皇極天皇、黙してその場を離れ、殿中に消えた。

・・・

その日は雨が降っていた。宮中の庭に投げ出された入鹿の屍、雨に打たれていた。

一枚のむしろが上からかけられた。これが貴人へのせめてものいたわりであった。

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奈良県桜井市多武峰に、藤原鎌足を祀る談山神社がある。

談山神社には、そのときの様子を画いた絵巻がある。入鹿の首が空に飛ぶ。

その一部始終を見ていた古人大兄が、不可解な言葉を残して自らの宮に走り戻った。

「韓人、鞍作臣を殺しつ。韓政に因りて誅せらるるを謂ふ。吾が心痛し」

甘樫丘の蝦夷に屍は届けられた。

蝦夷に兵を任されていた東漢氏は甲冑を着て一戦かと思われたが、無駄な戦いと諭され刀弓を捨てた。

翌日十三日、蝦夷の館に火の手があがった。自ら火を放ち、蝦夷は果てた。

大切な天皇記、国記、珍宝も焼かれようとしたが、船史恵尺の転機で、国記だけは運び出され、中大兄に献じられた。

・・・

飛鳥寺の近くに、入鹿の首塚といわれる石塔が立つ。

 

首塚は、甘樫丘を眺めている。入鹿の無念を語り継ぐように。

その昔(といっても20年ほど前)、畑の中にぽつんと立つ首塚であったが、

今は、まるでモニュメントのように整備され、いかにも観光化された入鹿の首塚である。

・・・・・・・

『日本書紀』

天豊財重日足姫天皇は、渟中倉太珠敷天皇の曽孫、押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王の女なり。母をば吉備姫王と曰す。天皇、古の道に順考へて、政)をしたまふ。息長足日広額天皇の二年に、立ちて皇后と為りたまふ。十三年の十月に、息長足日広額天皇崩りましぬ。
元年の春正月の丁巳の朔辛未に、皇后、即天皇位す。蘇我臣蝦夷を以て大臣とすること、故の如し。大臣の児入鹿、更の名は鞍作。自ら国の政を執りて、威父より勝れり。是に由りて、盜賊恐懾げて、路に遺拾らず。

・・・

冬十月の丁未の朔己酉に、群臣・伴造に朝堂の庭に饗たまひ賜ふ。而して位を授けたまふ事を議る。遂に国司に詔したまはく、「前の勅せる所の如く、更改め換ること無し。厥の任けたまへるところに之りて、爾の治す所を慎め」とのたまふ。壬子に、蘇我大臣蝦夷、病に縁りて朝らず。私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬ふ。復其の弟を呼びて、物部大臣と曰ふ。大臣の祖母は、物部弓削大連の妹なり。故母が財に因りて、威を世に取れり。戊午に、蘇我臣入鹿、独り謀りて、上宮の王等を廃てて、古人大兄を立てて天皇とせむとす。時に、童謡有りて曰はく、
岩の上に 小猿米焼 米だにも 食げて通らせ 山羊の老翁
蘇我臣入鹿、深く上宮の王等の威名ありて、天下に振すことを忌みて、独り僭ひ立たむことを謨る。是の月に、茨田池の水、還りて清みぬ。
十一月の丙子の朔に、蘇我臣入鹿、小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連を遣りて、山背大兄王等を斑鳩に掩はしむ。或本に云はく、巨勢徳太臣・倭馬飼首を以て将軍とすといふ。是に、奴三成、数十の舍人と、出でて拒き戦ふ。土師娑婆連、箭に中りて死ぬ。軍の衆恐り退く。軍の中の人、相謂りて曰はく、「一人当千といふは、三成を謂ふか」といふ。山背大兄、仍りて馬の骨を取りて、内寝に投げ置く。遂に其の妃(みめ)、并に子弟等を率て、間を得て逃げ出でて、膽駒山に隠れたまふ。三輪文屋君・舍人田目連及び其の女・菟田諸石・伊勢阿部堅経、従につかへまつる。巨勢徳太臣等、斑鳩宮を焼く。灰の中に骨を見でて、誤りて王死せましたりと謂ひて、囲を解きて退き去る。是に由りて、山背大兄王等、四五日の間、山に淹留りたまひて、得喫飯らず。三輪文屋君、進みて勧めまつりて曰さく、「請ふ、深草屯倉に移向きて、?より馬に乗りて、東国に詣りて、乳部を以て本として、師を興して還りて戦はむ。其の勝たむこと必じ」といふ。山背大兄王等対へて曰はく、「卿が?ふ所の如くならば、其の勝たむこと必ず然らむ。但し吾が情に冀はくは、十年百姓)を役はじ。一の身の故を以て、豈万民を煩労はしめむや。又後世に、民の吾が故に由りて、己が父母を喪せりと言はむことを欲りせじ。豈其れ戦ひ勝ちて後に、方に丈夫と言はむや。夫れ身を損てて国を固めば、亦丈夫にあらずや」とのたまふ。人有りて遥に上宮の王等を山中に見る。還りて蘇我臣入鹿に?ふ。入鹿、聞きて大きに懼づ。速に軍旅を発して、王の在します所を高向臣国押に述りて曰はく、「速に山に向きて彼の王を求べ捉むべし」といふ。国押報へて曰はく、「僕は天皇の宮を守りて、敢へて外に出でじ」といふ。入鹿即ち自ら往かむとす。時に、古人大兄皇子、喘息けて来して問ひたまはく、「何處か向く」とのたまふ。入鹿、具に所由を説く。古人皇子の曰はく、「鼠は穴に伏れて生き、穴を失ひて死ぬと」とのたまふ。入鹿、是に由りて、行くことを止む。軍将等を遣りて、膽駒に求めしむ。竟に覓)ること能はず。是に、山背大兄王等、山より還りて、斑鳩寺に入ります。軍将等、即ち兵を以て寺を囲む。是に、山背大兄王、三輪文屋君をして軍将等に謂らはしめて曰はく、「吾、兵を起して入鹿を伐たば、其の勝たむこと定し。然るに一つの身の故に由りて、百姓を残り害はむことを欲りせじ。是を以て、吾が一つの身をば、入鹿に賜ふ」とのたまひ、終に子弟・妃妾と一時に自ら経きて倶に死せましぬ。時に、五つの色の幡蓋、種種の伎楽、空に照灼りて、寺に臨み垂れり。衆人仰ぎ観、称嘆きて、遂に入鹿に指し示す。其の幡蓋等、変りて黒き雲に為りぬ。是に由りて、入鹿見ること得るに能はず。蘇我大臣蝦夷、山背大兄王等、総て入鹿に亡さるといふことを聞きて、嗔り罵りて曰はく、「噫、入鹿、極甚だ愚癡にして、専行暴悪す。?が身命、亦殆からずや」といふ。時の人、前の謡の応を説きて曰はく、「『岩の上に』といふを以ては、上宮に喩ふ。『小猿』といふを以ては、林臣に喩ふ。林臣は入鹿ぞ。『米焼く』といふを以ては、上宮を焼くに喩ふ。『米だにも、食げて通らせ、山羊の老翁』といふを以ては、山背王の頭髮斑雑毛にして山羊に似たるに喩ふ。又其の宮を棄捨てて深き山に匿れし相なり」といふ。

・・・

三年の春正月の乙亥の朔に、中臣鎌子連を以て神祇伯に拜す。再三に固辞びて就らず。疾を称して退でて三嶋に居り。時に、軽皇子、患脚して朝へず。中臣鎌子連、曽より軽皇子に善し。故彼の宮に詣でて、侍宿らむとす。軽皇子、深く中臣鎌子連の意気の高く逸れて容止犯れ難きことを識りて、乃ち寵妃阿倍氏を使ひたまひて、別殿を淨め掃へて、新しき蓐を高く鋪きて、具に給がずといふこと靡からしめたまふ。敬び重めたまふこと特に異なり。中臣鎌子連、便ち遇まるるに感けて、舍人に語りて曰はく、「殊に恩沢を奉ること、前より望ひし所に過ぎたり。誰か能く天下に王とましまさしめざらむや」といふ。舍人を充てて駈使とせるを謂ふ。舍人、便ち語らふ所を以て、皇子に陳す。皇子大きに悦びたまふ。中臣鎌子連、人と為り忠正しくして、匡し済ふ心有り。乃ち、蘇我臣入鹿が君臣長幼の序を失ひ、社稷を■■うかがふ権を挟むことを憤み、歴試ひて王宗の中に接りて、功名を立つべき哲主をば求む。便ち、心を中大兄に附くれども、疏然て未だ其の幽抱を展ぶること獲ず。偶中大兄の法興寺の槻の樹の下に打毬うる侶に預りて、皮鞋の毬の隨脱け落つるを候りて、掌中に取り置ちて、前みて跪きて恭みて奉る。中大兄、対ひ跪きて敬びて執りたまふ。?より、相び善みして、倶に懐ふ所を述ぶ。既に匿るる所無し。後に他の頻に接はることを嫌はむことを恐りて、倶に手に黄巻を把りて、自ら周孔の教を南淵先生の所に学ぶ。遂に路上、往還ふ間に、肩を並べて潜に図る。相協はずといふことなし。是に、中臣鎌子連議りて曰さく、「大きなる事を謀るには、輔有るには如かず。請ふ、蘇我倉山田麻呂の長女を納れて妃として、婚姻の眤を成さむ。然して後に陳べ説きて、与に事を計らむと欲ふ。功を成す路、?より近きは莫し」とまうす。中大兄、聞きて大きに悦びたまふ。曲に議る所に従ひたまふ。中臣鎌子連、即ち自ら往きて媒ち要め訖りぬ。而るに長女、期りし夜、族に偸まれぬ。族は身狭臣を謂ふ。是に由りて、倉山田臣、憂へ惶り、仰ぎ臥して所為知らず。少女、父の憂ふる色を怪びて、就きて問ひて曰はく、「憂へ悔ゆること何ぞ」といふ。父其の由を陳ぶ。少女曰はく、「願はくはな憂へたまひそ。我を以て奉進りたまふとも、亦復晩からじ」といふ。父、便ち大きに悦びて、遂に其の女を進る。奉るに赤心を以てして、更に忌む所無し。中臣鎌子連、佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田を中大兄に挙めて曰はく、云云。

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冬十一月に、蘇我大臣蝦夷・児入鹿臣、家を甘梼岡に双べ起つ。大臣の家を呼びて、上の宮門と曰ふ。入鹿が家をば、谷の宮門谷、男女を呼びて王子と曰ふ。家の外に城柵を作り、門の傍に兵庫を作る。門毎に、水盛るる舟一つ、木鉤数十を置きて、火の災に備ふ。恆に力人をして兵を持ちて家を守らしむ。大臣、長直をして、大丹穗山に、桙削寺を造らしむ。更家を畝傍山の東に起つ。池を穿りて城とせり。庫を起てて箭を儲む。恆に五十の兵士を将て、身に繞らして出入す。健人を名づけて、東方の?従者と曰ふ。氏氏の人等、入りて其の門に侍り。名づけて祖子孺者と曰ふ。漢直等、全ら二つの門に侍り。

・・・

六月の丁酉の朔甲辰に、中大兄、密に倉山田麻呂臣に謂りて曰はく、「三韓の調を進らむ日に、必ず将に卿をして其の表を読み唱げしめむ」といふ。遂に入鹿を斬らむとする謀を陳ぶ。麻呂臣許し奉る。戊申に、天皇大極殿に御す。古人大兄侍り。中臣鎌子連、蘇我入鹿臣の、人と為り疑多くして、昼夜剣持けることを知りて、俳優に教へて、方便りて解かしむ。入鹿臣、咲ひて剣を解く。入りて座に侍り。倉山田麻呂臣、進みて三韓の表文を読み唱ぐ。是に、中大兄、衛門府に戒めて、一時に倶に十二の通門を?めて、往来はしめず。衛門府を一所に召し聚めて、将に給祿けむとす。時に、中大兄、即ち自ら長き槍を執りて、殿の側に隠れたり。中臣鎌子連等、弓矢を持ちて為助衛る。海犬養連勝麻呂をして、箱の中の両つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田とに授けしめて曰はく、「努力努力、急須に斬るべし」といふ。子麻呂等、水を以て送飯く。恐りて反吐す。中臣鎌子連、嘖めて励しむ。倉山田麻呂臣、表文を唱ぐること将に尽きなむとすれども、子麻呂等の来ざることを恐りて、流づる汗身に浹くして、声乱れ手動く。鞍作臣、怪びて問ひて曰はく、「何故か掉ひ戦く」といふ。山田麻呂、対へて曰はく、「天皇に近つける恐みに、不覚にして汗流づる」といふ。中大兄、子麻呂等の、入鹿が威に畏りて、便旋ひて進まざるを見て曰はく、「咄嗟」とのたまふ。即ち子麻呂等と共に、出其不意く、剣を以て入鹿が頭肩を傷り割ふ。入鹿驚きて起つ。子麻呂、手を運し剣を揮きて、其の一つの脚を傷りつ。入鹿、御座に転び就きて、叩頭みて曰さく、「当に嗣位に居すべきは、天子なり。臣罪を知らず。乞ふ、垂審察へ」とまうす。天皇大きに驚きて、中大兄に詔して曰はく、「知らず、作る所、何事有りつるや」とのたまふ。中大兄、地に伏して奏して曰さく、「鞍作、天宗を尽し滅して、日位を傾けむとす。豈天孫を以て鞍作に代へむや」とまうす。蘇我臣入鹿、更の名は鞍作。天皇、即ち起ちて殿の中に入りたまふ。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、入鹿臣を斬りつ。是の日に、雨下りて潦水庭に溢めり。席障子を以て、鞍作が屍に覆ふ。古人大兄、見て私の宮に走り入りて、人に謂ひて曰はく、「韓人、鞍作臣を殺しつ。韓政に因りて誅せらるるを謂ふ。吾が心痛し」といふ。即ち臥内に入りて、門を杜して出でず。中大兄(なかのおほえ)、即ち法興寺に入りて、城として備ふ。凡て諸の皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造、悉に皆隨侍り。人をして鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜はしむ。是に、漢直等、眷属を総べ聚め、甲を?、兵を持ちて、大臣を助けて軍陣を處き設けむとす。中大兄、将軍巨勢徳陀臣を使して、天地開闢けてより、君臣始めて有つことを以て、賊の党に説かしめたまひて、赴く所を知らしめたまふ。是に、高向臣国押、漢直等に謂りて曰はく、「吾等、君大郎に由りて、戮されぬべし。大臣も、今日明日に、立に其の誅されむことを俟たむこと決し。然らば誰が為に空しく戦ひて、尽に刑せられむか」と言ひ畢りて、剣を解き弓を投りて、此を捨てて去る。賊の徒亦隨ひて散り走ぐ。己酉に、蘇我臣蝦夷等、誅されむとして、悉に天皇記・国記・珍宝を焼く。船史惠尺、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄に奉獻る。是の日に、蘇我臣蝦夷及び鞍作が屍を、墓に葬ることを許す。復哭泣を許す。是に、或人、第一の謡歌を説きて曰はく、「其の歌に『遥遥に、言そ聞ゆる、嶋の薮原』と所謂ふは、此、宮殿を嶋大臣の家に接ぜて起てて、中大兄、中臣鎌子連と、密に大義を図りて、入鹿を戮さむと謀れる兆なり」といふ。第二の謡歌を説きて曰はく、「其の歌に『彼方の、浅野の雉、響さず、我は寝しかど、人そ響す』と所謂ふは、此上宮の王等の性順くして、都て罪有ること無くして、入鹿が為に害されたり。自ら報いずと雖も、天の、人をして誅さしむる兆なり」といふ。第三の謡歌を説きて曰はく、「其の歌に『小林に、我を引き入れて、?し人の、面も知らず、家も知らずも』と所謂ふは、此入鹿臣が、忽に宮の中にして、佐伯連子麻呂・稚犬養連網田が為に、誅さるる兆なり」といふ。
庚戌に、位を軽皇子に譲りたまふ。中大兄を立てて、皇太子とす。

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