天萬豊日天皇 孝徳天皇

韓国慶州市

金春秋

『日本書紀』孝徳天皇大化三年(647)是歳に、

新羅は、金春秋を遣わして、孔雀と鸚鵡を献った。よりて春秋を「質むかはり」とした。

春秋は、「姿顔美しくて善みて談咲す」とある。かっこよくて、話も自信ありげに、笑顔を絶やさない。

ぺヨンジュンとかイビョンホンとかを思い浮かべればよいかな。

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金春秋は、654年新羅29代武烈王となる人で、百済・高句麗の滅亡、そして統一新羅建国に大きな影響力をもった人である。

そんな偉い人が、こんな緊張と戦乱の時期に倭国にやってきたという。ほんまかなあ。

『日本書紀』にはそう書いているけど、『三国史記』には一言もそんなことは書いてない。

どんな緊張と戦乱の時期かというと、

642年、新羅は百済に大耶城を奪われる。倭国が任那と呼んでいた伽耶諸国地域の城である。

この大耶城の城主品釈は金春秋の婿だった。このとき、婿と娘を百済に殺された。百済憎しと心に刻んだ。

金春秋、対立する高句麗に救援を求めた。窮策である。心配の通り、高句麗王は春秋を軟禁してしまった。

これを知った義兄の金信は、兵を挙げ国境まで救援に向って、高句麗王は「放春秋以還」とある。

新羅は唐に使者を遣わして救援を求めた。

643年、644年にその記事がある。「高句麗百済侵凌臣国」「願乞偏師。以存救援」とある。

644年、唐の太宗は第一次高句麗遠征を開始し、646年高句麗が謝罪して休戦となった。

647年、善徳女王という女王では国は治まらないと内乱が起きた。内乱は抑えることができたが、その女王が亡くなった。

しかし、次の真徳女王もまた女性なのである。臣下の金春秋や金信の手腕が問われることになる。

ここでちょっと不思議に思うこと。647年金春秋は倭国に質にやって来たという。

唐は新しい真徳女王を認め、冊命して楽浪郡王に封じた。唐と新羅は冊封体制にあり、とても友好な関係である。

一方倭国は、645年乙巳の変が起こり、政権交代で孝徳天皇が難波宮に遷ったばかり。

しかも、金春秋が質としてやってきた理由は、『日本書紀』によれば、

562年に任那が滅び、それを奪った新羅が任那に替わって調を貢いできた。

その任那の地が百済に奪われて、こんどは百済が貢いでくるようになったので、新羅は貢がないでよろしい。

その貢物の代わりに質をだしなさいと、646年9月に伝えた。その質が金春秋という。

80年も前に滅んだ任那の税金をもう払わなくていいから、代わりに質という。あきれるような要求である。

そんな税金免除のために、金春秋は倭国にやってきたというのだ。

百済は執拗に新羅に攻めてくるし、こんなときに女王は亡くなるし、唐はお願いした通り高句麗を攻めてくれているし、

身体がいくつあっても足りんというこの時期に、税金の質ですか。平和な倭国です。

・・・

648年閏12月、金春秋は息子金文王も連れて唐に遣わされる。

唐の太宗は、宴を催し、春秋を特進し、息子を左武衛将軍に任じ、まさに厚い待遇で迎える。

この記事は、『旧唐書』・『唐書』・『資治通鑑』・『冊府元龜』という中国の史料に記されるし、

『三国史記』の「新羅本記」にも載る。史実であろう。

金春秋は唐の信頼を得て帰国、以後新羅は唐の礼服を着るようになり、また律令も倣ったという。

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もしも、ほんまに倭国に来たのなら、質むかはりというのは人質ということではなく、外交使節としてやってきたということだろう。

緊張する朝鮮半島の三国、新羅に味方してくれという救援要請だったのだろう。

「任那の調」ではないと思う。しかも、『日本書紀』にはいつ帰ったとも記さない。

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やっぱり、来てないんとちゃうやろか。釜山から関空までフライト1時間というような時代やないし。

武烈王(金春秋)陵の傍にある陵碑。韓国国宝第25号である。

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654年、真徳女王が亡くなり、金春秋が武烈王として即位。

659年、百済が新羅に侵攻、新羅は唐に救援を求める。

660年、唐は百済討伐出兵、将軍は蘇定方、副将軍は唐に留まっていた息子の金仁問。

660年7月、百済義慈王が投降し、百済滅亡。

661年、唐・新羅の連合軍高句麗を攻める。途中、武烈王は病死。激動の生涯であった。

668年高句麗滅亡、武烈王の息子文武王によって統一新羅が誕生する。

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武烈王陵の後方には、数基の古墳が並ぶ。武烈王の祖先墓らしいがどなたかは不詳。

また、武烈王陵の前、道路を挟んで2基の古墳がある。

左が金仁問墓、唐・新羅連合軍が百済に勝ったときの副将軍、高句麗を攻めたときは新羅軍の将軍だった。

右は、武烈王九代孫の金陽墓。

ところで、『三国遺事』に、こんな話が載る。

・・・

信は春秋公と正月午忌日に信の宅の前で蹴鞠をしていた。そのときわざと春秋の裙を踏んづけて、その襟紐を裂いてしまった。「どうぞ吾家に入って縫わせてください」というので、公はこれに從った。信は姉の阿海に針で縫うように命じた。阿海は「どうしてこんな細事なことで輕々しく貴公子に近づけましょうか」と辞退した。そこで妹の阿之に命じた。

公は信の意を知って遂に阿之とつき合うようになった。それからしばしば訪ねるようになった。

信は阿之が身ごもったことを知って、叱りつけて云った。「父母に告げることなく身ごもるとは何ということだ」。そして国中に知れわたるように噂をひろめ、その妹を焚き殺すといった。

ある日、善コ王が南山に遊幸される日、庭中に薪を積み上げ、火を焚いて煙を起てた。王はそれを望て、「何の煙か」と問うた。左右の者が奏して、「たぶん信が妹を焚こうとする煙でしょう」と答えた。王は「それは何故に」と問うた。曰て、「妹が夫無くして身ごもったためです」。王は、「それはいったい誰の所為でしょう」。その時公は王の間近に侍っていたが、顏の色が大変。王は、「それは汝の所為だね。速かに往って救いなさい。」と。公は命を受け馬で駆け走った。殺さないでくれと伝え、その後すぐに婚禮をあげた。

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金春秋が金信の妹を妃にしたという話である。いわゆる「できちゃった結婚」なのである。

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新羅の将軍で、統一新羅の建国に大貢献があった人である。

562年、新羅に併呑された金官伽耶国の王家の血を引く。新羅は、他国の王家も大切にした。

妹が金春秋の妃になり、その王子が後の30代文武王である。

673年に亡くなる。後、9世紀になって興武大王に封じられた。慶州市西北に、金信墓がある。

墳墓周囲にぐるっと十二支の石造が並ぶ。

墳墓の前に、ふたつの墓標が立つ。

左の墓標は、「新羅太大角干金信」とある。

右の墓標は、「開国公純忠壮烈興武王墓」とある。

右の墓標、よく見ると「墓」という字の下に、あきらかに「陵」と刻されていたことが分る。

これは大きな違いで、王家であれば「陵」、臣下であれば「墓」である。

文武王の伯父、追号も興武大王、なのにいつの時代にか陵から墓に改刻された。

金官伽耶の王家は、新羅の王家ではないということだろうか。

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『旧唐書』

「貞観二十二年閏十二月癸未、新羅王遣其相伊贊千金春秋。及其子文王來朝。○是歳。新羅女王金善徳死。遺冊立其妹真徳為新羅王。」

『唐書』

「貞観二十二年 遣子文王及弟伊贊子春秋來朝。拝文王左武衛将軍。春秋特進。因請改章服。従中國制。内出珍服賜之。又諸國學。觀釋奠講論。帝賜所製晉書。辭歸。敕三品以上郊餞。

『資治通鑑』

「貞観二十二年正月。新羅王金善徳卒。以善徳妹真徳為柱國。樂浪郡王。遣使冊命。・・中略・・○閏十二月癸未、新羅相金春秋及其子文王入見。春秋真徳之弟也。上以春秋為特進。文王為左武衛将軍。春秋請改章服従中國。内出冬服賜之。」

『冊府元龜』

「貞観二十三年二月癸巳。特進新羅王金春秋還國。令三品以上宴餞之。優禮甚備。」

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