大雀命(大鷦鷯天皇) 仁徳天皇

大阪

即位

高津高等学校にある「高津宮址」碑、高校のHPの写真をお借りしました。

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3年にも及ぶ皇位の譲り合いも、菟道稚郎子皇子が自ら命を絶つという悲しい出来事で終止符が打たれ、

大鷦鷯尊(仁徳天皇)は即位して、難波の高津宮を都とした。

お名前からして、仁徳ある天皇さまで、『新古今和歌集』に、

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貢物許されて国富めるを御覧じて  仁徳天皇御製

高き屋に 登りて見れば けぶり立つ 民の竈は にぎはひにけり

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即位して4年、高台に登って遠くを見渡してみたけれど、民家から焚く煙がまったく見えない。

貧しくて飯を炊くこともできないのだ。これは治世を預かる私の責任と、

3年間税金を取らないと宣言した。どこかの国の総理大臣に聞かせたい。

3年後、再び高台に登ると、民家からは煙が立ち、庶民のくらしが豊かになったと実感できた。

そこで詠んだ歌が、上の『新古今和歌集』の歌、

でもこの歌、仁徳天皇御製ではないようだ。

延喜六年、時の官僚を集めて『日本書紀』の勉強会をし、後の宴会で藤原時平が仁徳天皇になりきって詠ったもの。

それでも、歌の内容に間違いはなく、仁徳ある天皇やったということである。

余談やけど、高津宮のある大阪市もこれを見習って、市歌に、

「高津の宮の昔より 代々の栄えを重ねきて 民のかまどに立つ煙 にぎわいまさる大阪市 にぎわいまさる大阪市」

ええ街なんやろなあ、大阪市は。

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仁徳天皇は、税金を3年間免除しただけでなく、治水工事にも力を注いだ。

茨田堤まむたのつつみを築いたり、難波の堀江を掘って海に通したり。

当時は、淀川と大和川が合流していて、水害も多発、この治水工事は天皇の大事業であったことがうかがえる。

その茨田堤について、次のような説話を『日本書紀』は記す。

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天皇は夢に神のお告げを聞いた。

「武蔵の人・強頸こはくびと、河内の人・衫子ころものこ、このふたりを川の神に捧げたら、水を塞き止めることができるだろう」

人身御供である。

ふたりは引っ張り出され、まず強頸、泣き叫んで水に放り投げられて死んでしまった。それでも強頸のおかげで片方の堤ができ、水は塞き止められた。

衫子は、ふたつの大きなひさご(ひょうたん)を抱いて水に入った。

「神に申す。もしもほんとうに私を欲しいというのなら、このひさごもろともに沈めよ。

もしも偽りの神ならば、このひさごと私は決して沈まない」

衫子はぷかぷかと浮いたまま川を流れ、命を落とすことはなかった。しかももう片方の茨田堤が出来て、水を塞き止めることができた。

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大阪府門真市宮野町に、堤根神社がある。

社伝にいう。

河内湖周辺を水害から守るため、仁徳天皇の命により茨田宿禰が旧淀川に日本最古の堤防「茨田堤」を築く。

この堤を守るため、茨田氏の祖先彦八井耳命(神武天皇の皇子)を守護神として奉祀したのが起源。

堤根神社の絵馬は、『日本書紀』に書かれた衫子の才知である「ひさご」を描く。古来より願事成就の象徴としてひさごを縁結びとする。

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二年の春三月に、磐之媛命を立てて皇后とす。

皇后、大兄去来穗別天皇・住吉仲皇子・瑞歯別天皇・雄朝津間稚子宿祢天皇を生れませり。

すごい皇后や。息子4人の中で、3人までが天皇になったというのだから。

履中天皇、反正天皇、允恭天皇である。

この磐之姫命、とても嫉妬深くって、天皇がちょっとでも別の女の話をすると、

「足母阿賀迦邇嫉妬」したという(『古事記』)。万葉仮名風に書かれているが、「あしもあがかにねたみたまう」と読む。

なんとなくそのしぐさが想像できて愉快だ。可愛いともいえる。

でもそれが度が過ぎると、嫌われる。

『記紀』には、黒日姫や玖賀媛の説話も記されてが、女性は皇后を恐れて天皇に近づこうとしない。

天皇は、「わしは天皇やで。妃のひとりやふたりいてもええやろ。」と、皇后にお願いするのだけれど、

「だ!め!」

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二十二年、天皇はもう一度皇后にお願いした。

「なあ、頼むわ。八田皇女だけはどうしても妃にしたいんや。頼む」

これは、弟菟道稚郎子皇子が天皇に皇位を譲り、亡くなるときの遺言なのである。男としては約束を果たしたい。

磐之媛皇后のご返事はやっぱり、「だあめ!」

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三十年、皇后が神事の準備もあって紀国(和歌山)にお出かけの時、事件は起きた。

これ幸いに、天皇は八田皇女を宮内に入れて妃にしてしまった。

どうしても弟菟道稚郎子皇子との約束を守ろうとしたのだ。律儀な天皇なのである。

そやけど、あえて年号を記してきたんやけど、この時治世三十年のこと。

どうゆうこと?天皇になる前の約束やから、八田皇女、いったいいくつになっていたんや。

約束の時15歳やったら、もう45歳になっている。5歳の幼子としても35歳や。

まあそんなことは詮索せんとこ。ええ女に年齢はないもんな。

皇后、船の中でこの情報が入った。もうあかん、狂ってしまった。嫉妬狂いである。

二度と天皇の顔など見たくないと、気を使って港で待つ天皇には会わず、

どんどん川を溯って、山背の筒城宮に入ってしまった。

京田辺市多々羅都谷

同志社大学の京田辺キャンパス内に、宮跡がある。

これは後の雄略天皇の筒城宮跡とあるが、磐之媛の宮地といってもいいだろう。

仁と徳のある天皇やから、臣下を遣わしたり、自らこの筒城宮に足を運んで、

「ごめん、すまん、頼むで難波に帰ってきてくれ」と、頭を下げたのだけど、

遂に、難波の地を踏むことなく、5年後、この筒城宮で磐之媛皇后は亡くなった。

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三十七年、皇后を乃羅山に葬りまつる、とある。

奈良市佐紀町に、磐之媛陵がある。(平城坂上陵)

三十八年、八田皇女を皇后とした。

待たされて、待たされて、婚期が遅かったからか、八田皇后にはお子さまがいない。

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天皇には、異母の妹がいた。雌鳥皇女という。妃に欲しいと思った。八田皇后の実の妹である。

天皇の四十年の話だから、親父応神天皇が亡くなって3年空位で、43年以上前には生まれていた雌鳥皇女。

この方も美しいのだろう、女性に年齢はない。

異母の弟、隼別皇子に、天皇は頼んだ。

「この歳になって、おれから直接云うのも恥ずかしい。隼別皇子、お前から雌鳥皇女におれの気持ち伝えてよ」

ところが、隼別皇子にとっても妹なんだけど、あんまりええ女やから、おれの嫁にしようと秘かに結婚してしまった。

天皇それを知って、むっとしたけど、そこは仁徳ある天皇、兄弟のことや許そうと思った。

そこでまあるく収まったと思ったのに、この夫婦の会話、

「隼と鷦鷯と、どっちが速く飛ぶ?」、「そら、あんたの隼やんか」、「そうやろ、隼やろ。天下も鷦鷯より隼の方がええのとちゃうか」

これにはさすがの仁徳ある天皇も切れた。「殺せ、ふたりを」。

ふたりは、手を取りあって逃げたけど、素珥山で殺された。(『古事記』)

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素珥山とは、奈良県宇陀郡曽爾村の山のことだろう。

三重県との県境にあり、山も川も高原もきれい。秋の曽爾高原はススキ。

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仁徳天皇の治世、民の家から煙が立ちのぼるように、豊かになった。天皇さまのおかげである。

この時代になると、百済、新羅など海外との外交記事も増えてくる。

『宋書』に「倭の五王」と記録される時代は、この仁徳天皇のころからといわれる。

「讃・珍・済・興・武」である。

興は安康天皇、武は雄略天皇だろうが、

讃・珍・済は、応神天皇・仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇で説が分かれる。

この時代、海外に目を向けられるほどに倭国が安定してきたということだろう。

『日本書紀』は、「政令流行れて、天下大きに平なり。二十余年ありて事なし」と記す。

治世は最高の天皇やったけど、女性問題では生涯悩み続けた。

天皇という権力があるのに、女性にやさしい細やかな気配りばかり、ええ天皇やったんやろなあ。

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八十七年、仁徳天皇、崩りましぬ。百舌鳥陵に葬りまつる。

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大阪府堺市堺区大仙町に、日本最大の前方後円墳「大仙陵古墳」がある。

これが仁徳天皇陵(百舌鳥耳原中陵)とされる。

でかい。全長486b、周囲は遊歩道になっていて、ぐるっと回ると、2750bという。

墳墓には見えない。小高い山がある。

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