大雀命(大鷦鷯天皇) 仁徳天皇

菟道稚郎子皇子

京都・大阪

即位前紀

仁徳天皇(大鷦鷯尊)は、応神天皇の第四子で、母は皇后である仲姫命。

同じ母の姉弟がいて、荒田皇女と根鳥皇子。

異母兄弟がたくさんいて、男女20人という。全員紹介はできないから、この旅記に登場する皇子・皇女だけ紹介。

仲姫命の姉、高城入姫の子に、皇子3人皇女2人いて、次男が大山守皇子。だから仁徳天皇は第四子になる。

宮主宅媛の子に、菟道稚郎子皇子、八田皇女、雌鳥皇女。

糸媛の子に、隼總別皇子。

・・・

その昔、応神天皇は大山守命と大鷦鷯尊にたずねた。

「お前たちは、子どもがかわいいと思うか」、ふたりは「もちろんです、お父さん」。

「では、大きくなった子と、幼い子とではどっちだ」

大山守命は、「大きくなった子ですよ」と答え、おやじはむっとした顔になった。

大鷦鷯尊は、おやじの気持ちが分っていたから、「お父さん、まだまだ気を配らなければならない幼子ですよ」。

おやじは、「お前はわしの心がわかっとる」と満足顔であった。

そして、菟道稚郎子皇子を太子にしようと心に決めた。

・・・

応神天皇、四十一年春二月、110歳で亡くなった。

大阪府羽曳野市誉田に、応神天皇陵(惠我藻伏岡陵)がある。

応神天皇が亡くなり、次の天皇には太子である菟道稚郎子皇子がなるべきなのに、

「私はとてもまだまだ未熟で、天皇になれるような人物ではない。」

大鷦鷯尊、兄貴は仁・孝に篤く、徳があって民から人望もある。兄貴が天皇になるべきだ」

と云って、皇位に就こうとしない。大鷦鷯尊は、

「それはない、おやじが菟道稚郎子皇子、弟のお前に決めたのだ。」

そんな譲り合いが3年も続いた。はよ決めなあかんがな。

それを知った兄の大山守命、

おやじは弟ふたりを可愛がり、兄のおれを疎んじていたけど、ほんまは兄であるこのおれが天皇になるべきや。

兵を集めて太子を殺そうとした。それを知った大鷦鷯尊は、太子に情報を入れ、

太子は船の船頭に化けて、宇治川を渡ろうとする大山守命を突き落として殺した。

それでも皇位に就こうとしない菟道稚郎子皇子、

ついには自ら死んでしまったという。菟道の山の上に葬るとある。

・・・

京都府宇治市菟道丸山に、菟道稚郎子墓がある。

りっぱな墳墓であるが、宇治川の東岸にある。『日本書紀』にいう「菟道の山の上に葬る」とは合わない。

明治の初め、ここに小さな円墳があった。

地元では、大山守命の墓、あるいは菟道稚郎子皇子の母宮主宅媛の墓と伝承されていた。

ところが、何を思ったのか、明治23年、この円墳に方墳を加えて前方後円墳に整形し、

菟道稚郎子皇子の墓とした。

別に驚くことではない。現在だって、田舎の墓は遠いからと、東京や大阪の都心部に墓を移す家族もある。

ダムが出来るといって、強制的に墓を移動させられた例もある。そう思えば、ここが菟道稚郎子皇子の墓。

あきれてしまった人、開いた口が塞がらない人、口を閉じましょう。

・・・

宇治市宇治山田に、宇治神社と宇治上神社がある。

宇治川の右岸、この辺りは応神天皇の離宮(桐原日桁宮)跡でもあり、菟道稚郎子皇子の宮跡とも伝わる。

宇治神社 祭神は、もちろん菟道稚郎子皇子

・・・

宇治上神社 祭神は、菟道稚郎子皇子、応神天皇、仁徳天皇

本殿、拝殿ともに国宝である。

本殿は、年輪年代測定で1060年代と計測された。最古の神社建築という。

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ところで、菟道稚郎子皇子は、若い頃から勉強を一生懸命にやった人で、

百済の王といわれる阿直岐に経典を学び、さらに王仁という博士を百済から呼び寄せて、諸々の典籍を習ったという。

このような利発で勉強家の皇子を、応神天皇は特に寵愛し、太子を命じたのである。

この皇子には、八田皇女という妹がいる。死の間際仁徳天皇に、この妹を是非妃にと遺言した。

それが後に、えらいことになってしまう。

・・・・・

この宇治川は、そして上流の瀬田川は、歴史にたびたび登場する。

菟道稚郎子皇子と大山守命もこの宇治川で戦った。

神功皇后のとき、武内宿禰と忍熊王も、この宇治川で戦った。

天智天皇と大海人皇子(天武天皇)も、壬申の乱では瀬田川・宇治川で戦った。

源平の合戦もこの宇治川を制した方が勝った。

後世、関が原を天下分け目の戦いというけれど、古代では、この宇治川・瀬田川が、天下分け目の戦いだった。

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『古今和歌集』仮名序に、

大鷦鷯の帝の、難波津にて皇子ときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、位に即きたまはで三年になりにければ、
王仁といふ人の訝り思ひてよみてたてまつりける歌なり。「この花」は梅の花をいふなるべし。

大鷦鷯の帝をそへたてまつれる歌
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

・・・友人の情報・・・

大阪市生野区にある御幸森天神宮は祭神が仁徳天皇らしいが、境内にこの歌の碑がある。
万葉仮名、和文、ハングルが刻されている。

携帯メールで送ってくれた写真だからいまいち鮮明ではないが。

そやけど、どう考えてもこの歌を王仁が詠んだとは思えないのだが・・・。

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『日本書紀』

大鷦鷯天皇  仁徳天皇

大鷦鷯天皇は、誉田天皇の第四子なり。母をば仲姫命と曰す。五百城入彦皇子の孫なり。天皇、幼くて聰明く叡智しくまします。貌容美麗し。壮に及りて、仁寛慈惠まします。四十一年の春二月に、誉田天皇、崩りましぬ。時に太子菟道稚郎子、位を大鷦鷯尊に譲りまして、未だ即帝位さず。仍りて大鷦鷯尊に諮したまはく、「夫れ天下に君として、万民を治むる者、蓋ふこと天の如く、容るること地の如し。上、驩ぶる心有りて、百姓を使ふ。百姓、欣然びて、天下安なり。今我は弟なり。且文獻足らず。何ぞ敢へて嗣位に継ぎて、天業登らむや。大王は、風姿岐嶷にまします。仁孝遠く聆えて、歯且長りたまへり。天下の君と為すに足れり。其れ先帝の、我を立てて太子としたまへることは、豈能才有らむとしてなれや。唯愛したまひてなり。亦宗廟社稷に奉へまつることは重事なり。僕は不佞くして、称ふに足らず。夫れ昆は上にして季は下に、聖は君にして愚は臣なるは、古今の常典なり。願はくは王、疑ひたまはず、即帝位せ。我は臣として助けまつらまくのみ」とのたまふ。大鷦鷯尊、対へて言はく、「先皇の謂ひしく、『皇位は一日も空しかるべからず』とのたまひき。故、預め明徳を選びて、王を立てて貳としたまへり。祚へたまふに嗣を以てし、授けたまふに民を以てしたまふ。其の寵の章を崇めて、国に聞えしむ。我、不賢しと雖も、豈先帝の命を棄てて、輙く弟王の願に従はむや」とのたまふ。固く辞びたまひて承けたまはずして、各相譲りたまふ。

・・・中略・・・

然して後に、大山守皇子、毎に先帝の廃てて立てたまはざることを恨みて、重ねて是の怨有り。則ち謀して曰はく、「我、太子を殺して、遂に帝位登らむ」といふ。爰に、大鷦鷯尊、預め其の謀を聞しめして、密に太子に告して、兵を備へて守らしめたまふ。時に太子、兵を設けて待つ。大山守皇子、其の兵備へたることを知らずして、独数百の兵士を領ゐて、夜半に、発ちて行く。会明に、菟道に詔りて、将に河を度らむとす。時に太子、布袍服たまひて?櫓を取りて、密に度子に接りて、大山守皇子を載せて済したまふ。河中に至りて、度子に誂へて、船を蹈みて傾す。是に、大山守皇子、墮河而沒りぬ。更に浮き流れつつ歌して曰はく、
  ちはや人 菟道の渡に 棹取りに 速けむ人し 我が対手に来む
然るに伏兵多に起りて、岸に著くこと得ず。遂に沈みて死せぬ。其の屍を求めしむるに、考羅済に泛でたり。時に太子、其の屍を視して、歌して曰はく、
  ちはや人 菟道の渡に 渡手に 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本辺は 君を思ひ出 末辺は 妹を思ひ出 悲けく そ こに思ひ 愛しけく ここに思ひ い伐らずそ来る 梓弓檀
乃ち那羅山に葬る。既にして宮室を菟道に興てて居します。猶位を大鷦鷯尊に譲りますに由りて、久しく即皇位さず。爰に皇位空しくして、既に三載を経ぬ。時に海人有りて、鮮魚の苞苴を齎ちて、菟道宮に獻る。太子、海人に令して曰はく、「我、天皇に非ず」とのたまひて、乃ち返して難波に進らしめたまふ。大鷦鷯尊、亦返して、菟道に獻らしめたまふ。是に、海人の苞苴、往還に?れぬ。更に返りて、他し鮮魚を取りて獻る。譲りたまふこと前の日の如し。鮮魚亦?れぬ。海人、屡還るに苦みて、乃ち鮮魚を棄てて哭く。故、諺に曰はく、「海人なれや、己が物から泣く」といふは、其れ是の縁なり。太子の曰はく、「我、兄王の志を奪ふべからざることを知れり。豈久しく生きて、天下を煩さむや」とのたまひて、乃ち自ら死りたまひぬ。時に大鷦鷯尊、太子、薨りたまひぬと聞して、驚きて、難波より馳せて、菟道宮に到ります。爰に太子、薨りまして三日に経りぬ。時に大鷦鷯尊、??ち■らび哭きたまひて、所如知らず。乃ち髮を解き屍に跨りて、三たび呼びて曰はく、「我が弟の皇子」とのたまふ。乃ち応時にして活でたまひぬ。自ら起きて居します。爰に大鷦鷯尊、太子に語りて曰はく、「悲しきかも、惜しきかも。何の所以にか自ら逝ぎます。若し死りぬる者、知有らば、先帝、我を何謂さむや」とのたまふ。乃ち太子、兄王に啓して曰したまはく、「天命なり。誰か能く留めむ。若し天皇の御所に向ること有らば、具に兄王の聖にして、且譲りますこと有しませることを奏さむ。然るに聖王、我死へたりと聞しめして、遠路を急ぎ馳でませり。豈労ひたてまつること無きこと得むや」とまうしたまひて、乃ち同母妹八田皇女を進りて曰はく、「納采ふるに足らずと雖も、僅に掖庭の数に充ひたまへ」とのたまふ。乃ち且棺に伏して薨りましぬ。是に、大鷦鷯尊、素服たてまつりて、発哀びたまひて、哭したまふこと甚だ慟ぎたり。仍りて菟道の山の上に葬りまつる。

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