天豊財重日足姫天皇 斉明天皇 奈良県生駒市・和歌山県 有間皇子 有間皇子は、孝徳天皇の皇子で、母は左大臣阿倍内麻呂の娘小足媛。 645年乙巳の変で、突然天皇位がまわってきた孝徳天皇、646年に都を難波宮に遷した。 653年、皇太子中大兄皇子が都を大和に戻したいと言い出しが、孝徳天皇は聞き入れなかった。 そうしたら、中大兄皇子は臣下みんなを連れて大和に戻ってしまった。皇后の間人皇女もだんなを捨て、兄の中大兄皇子に従った。 654年、失意の中、孝徳天皇は亡くなった。 ・・・ 元天皇の皇極天皇が、ふたたび斉明天皇として即位した。 当然、順番としては皇太子の中大兄皇子が即位するものと考えられるが、なぜかここも自重した。 孝徳天皇の息子有間皇子が天皇位を継ぐという候補のひとりになったのかもしれない。 それが、中大兄皇子にはめざわりだった。 ・・・ それを危険と感じとった有間皇子は、心の病と偽って牟婁の温泉に療養に出かけ、しばらくして病も癒えたと斉明天皇に伝えた。 景観も温泉もすばらしいとほめる有間皇子の話に、天皇も行ってみようと思った。 斉明天皇は、中大兄皇子らを連れて牟婁の湯に出かけた。 ・・・ 中大兄皇子の意を受けた蘇我赤兄が有間皇子に近づく。 この機会を逃してはならない。斉明天皇と中大兄皇子を撃とうと誘う。 有間皇子19歳、若い。「吾が年始めて兵を用ゐるべき時なり」と、赤兄に告げた。 ・・・ 有間皇子謀反の心ありと、赤兄の命を受けた兵が、皇子の市経いちぶの家を囲んだ。 ・・・・・ 奈良県生駒市壱分いちぶに、有間皇子私邸跡といわれる伝承地がある。
知人が生駒市壱分町に住んでおられ、有間皇子の私邸跡と伝わる壱分町の一画を紹介いただいた。 その跡地近くには現在無量寺があり、住職さんに現地の案内と説明をいただくというご足労までかけてしまった。おふたりに感謝申し上げたい。 無量寺山門の前を通り過ぎ、細い山道を少し上がると、周りには竹薮が広がる。 知人にいただいた『生駒市誌』抜粋に、「有間皇子の森と御所薮」と紹介されている所である。 竹薮の一画に、無造作に積まれた五輪塔のような石造物がある。 一部に伝わる「有間皇子墓」である。 近くの方であろうか、花が供えられていたようだし、酒も供えられていたようだ。 住職さんのお話では、 この辺りまで竹薮が広がったのはここ数十年のことで、御所薮と称する所はもう少し麓寄りの地。 その辺りに有間皇子の私邸があったのではという。「御所薮」という名が古くから伝わる。 この墓石のある位置に数十年前には小さな祠があった。今は朽ちてしまって跡形もない。 ただし、その祠が有間皇子に関連するものであるかどうか、今となってはもう分らないとのこと。 ・・・ 1400年近く前の私邸跡を求めること自体が無理なこと、 この辺りを「有間皇子の森と御所薮」と口伝あることだけで、古代へのロマンを感じさせてくれる。 『日本書紀』に「市経いちぶ」と載る地が、今「壱分いちぶ」としてその名を残すこともすばらしい。 『生駒市誌』は、「当時この生駒は中央に志の得なかった皇子や部将の遁居する場所になっていた」という。 難波宮でひとり淋しく亡くなった父孝徳天皇、そして時代は中大兄皇子を中心に動きだしていた。 この市経の地に移り住み静かに余生をと19才の若者が思ったのであろうか、それとも・・・。 正史は、狂者を装った皇子、蘇我赤兄に欺かれての皇子謀反と伝える。 ・・・・・ 蘇我赤兄に捕らえられた有間皇子、牟婁の湯に連行される有間皇子、帰路藤白坂で命を閉じる有間皇子。 拙「万葉の旅」の頁をごらんいただきたい。 ・・・・・・・ 『日本書紀』 (三年)九月に、有間皇子、性黠くして陽狂すと、云云。牟婁温湯に往きて、病を療むる偽して来、国の体勢を讃めて曰はく、「纔彼の地を観るに、病自づからに?消りぬ」と、云云。天皇、聞しめし悦びたまひて、往しまして観さむと思欲す。 ・・・ 冬十月の庚戌の朔甲子に、紀温湯に幸す。天皇、皇孫建王を憶でて、愴爾み悲泣びたまふ。乃ち口号して曰はく、 山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の中は 忘らゆましじ 其一。 水門の 潮のくだり 海くだり 後も暗に 置きてか行かむ 其二。 愛しき 吾が若き子を 置きてか行かむ。 其三。 秦大蔵造万里に詔して曰はく、「斯の歌を伝へて、世に忘らしむること勿れ」とのたまふ。 十一月の庚辰の朔壬午に、留守官蘇我赤兄臣、有間皇子に語りて曰はく、「天皇の治らす政事、三つの失有り。大きに倉庫を起てて、民財を積み聚むること、一つ。長く渠水を穿りて、公粮を損し費すこと、二つ。舟に石を載みて、運び積みて丘にすること、三つ」といふ。有間皇子、乃ち赤兄が己に善しきことを知りて、欣然びて報答へて曰はく、「吾が年始めて兵を用ゐるべき時なり」といふ。甲申に、有間皇子、赤兄が家に向きて、楼に登りて謀る。夾膝自づからに断れぬ。是に、相の不祥を知りて、倶に盟ひて止む。皇子帰りて宿る。是の夜半に、赤兄、物部朴井連鮪を遣して、宮造る丁を率ゐて、有間皇子を市経の家に囲む。便ち駅使を遣して、天皇の所に奏す。戊子に、有間皇子と、守君大石・坂合部連薬・塩屋連?魚とを捉へて、紀温湯に送りたてまつりき。舍人新田部米麻呂、従なり。是に、皇太子、親ら有間皇子に問ひて曰はく、「何の故か謀反けむとする」とのたまふ。答へて曰さく、「天と赤兄と知らむ。吾全ら解らず」とまうす。庚寅に、丹比小沢連国襲を遣して、有間皇子を藤白坂に絞らしむ。是の日に、塩屋連?魚・舍人新田部連米麻呂を藤白坂に斬る。塩屋連?魚、誅されむとして言はく、「願はくは右手をして、国の宝器作らしぬよ」といふ。守君大石を上毛野国に、坂合部薬を尾張国に流す。或本に云はく、有間皇子、蘇我臣赤兄・塩屋連小戈・守君大石・坂合部連薬と、短籍を取りて、謀反けむ事を卜ふ。或本に云はく、有間皇子曰はく、「先づ宮室を燔きて、五百人を以て、一日両夜、牟婁津を邀へて、疾く船師を以て、淡路国を断らむ。牢圄るが如くならしめば、其の事成し易けむ」といふ。或人諌めて曰はく、「可からじ。計る所は既に然れども、徳無し。方に今皇子、年始めて十九。未だ成人に及らず。成人に至りて、其の徳を得べし」といふ。他日に、有間皇子、一の判事と、謀反る時に、皇子の案机の脚、故無くして自づからに断れぬ。其の謨止まずして、遂に誅戮されぬといふ。 |
記紀の旅
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