天豊財重日足姫天皇 斉明天皇

福岡県朝倉市

百済救援

熟田津

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな  額田王

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660年6月の百済滅亡の情報は、いち早く翌月には日本にも伝えられたようである。

王や王子たちは唐に連れ去られてしまったが、各地で遺臣たちが局地戦を展開し、

唐・新羅軍を撃ち破り、勢いを盛り返しているとの情報もあわせて届いた。

10月、鬼室福信は使いを遣し、日本に質として預けている王子余豊璋を返してほしいと云ってきた。

斉明天皇は、百済の再興を願い、豊璋とその妻たちを百済に送り届けることにした。

12月、自ら百済救援に向うことを決断、難波宮に移り、救援のための軍船や武器の準備を始めた。

翌斉明7年(661)1月6日、斉明天皇を乗せた船団が難波の港を発った。


大伯海(岡山・邑久の海)

熟田津(愛媛・松山市)

娜大津(博多湾)

1月8日、船は大伯海に着いた。大田姫皇女、女を産む。その女を名づけて大伯皇女という。

出発して二日目、大海人皇子の嫁さん大田姫皇子が出産した。

この船、百済に戦争に行くんとちゃうの。嫁さん連れ、しかも明日にも生まれる大きなお腹した妊婦もいっしょやった。

1月14日、船は伊予の熟田津に着いた。道後温泉(石湯行宮)に泊る。

ほんまに、ちょっと待ってえな。今度は家族で温泉かいな。

額田王も同行していて、万葉歌を残す。従軍記者というのは聞くが、従軍歌人なんや。

額田王、このときすでに大海人皇子の嫁さんで、十市皇女も生まれて10歳くらい。斉明天皇とは嫁姑の仲や。

だんなは、生まれたばかりの大伯皇女を嬉しそうに抱いているし、もう嫉妬心もなく冷めて、従軍歌人に徹したと思う。

万葉歌によれば、ようやく潮も満ちて熟田津を出発できたとあるが、博多の娜大津に着いたのが3月25日。

2ヶ月は熟田津の温泉にいたことになる。ほんまに戦争に行くつもりなんやろか。

5月9日、天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます、とある。

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福岡県朝倉市須川に、朝倉橘広庭宮跡がある。

これから朝鮮半島に出陣しようとするには、えらい海から離れたところにこの宮はある。

このような山の中に隠れてしまって、ほんまに百済の戦況が掌握できるのやろか。

宮を造るのに朝倉社の木を伐ったから、神は怒って鬼火が現われ、多くの侍人が亡くなったとある。

さらに、7月24日、斉明天皇がこの朝倉宮で亡くなってしまった。

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宮址の碑が立つ森の中に、朝闇神社がある。ちょうあんじんじゃという。あさくらとも読める。

この森の木を伐って、この神さんが怒ったのだろうか。

朝倉市山田に、恵蘇八幡宮がある。朝倉社はこの神社といわれている。

社伝には、

斉明天皇が亡くなって仮の殯葬が終ると、中大兄皇子は朝倉山のこの地に木皮のついたままの丸木で忌殿を建て、

12日間喪に服したという。「木の丸殿」あるいは「黒木の御所」と呼ばれるようになった。

神社宝物には、中大兄皇子が喪に服している姿を描く絵画などがあるという。

私が訪ねた日はちょうど秋祭りの日、

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百済救援は、その後中大兄皇子に引継がれるが、天智二年(663)の白村江の戦いで大敗する。百済の国は半島より消えた。

後の世持統天皇四年(690)、『日本書紀』にこんな記事がある。

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筑後国の兵士大伴部博麻は、百済救援の戦いで唐の捕虜になってしまった。

他にも捕虜がいたが、天智三年(664)、唐の使いをすれば倭国に帰れる機会があった。しかし、捕虜たちには衣服も道中の食べ物とてなく、

とても倭国まで戻る旅費を工面できなかった。

博麻は仲間4人に云った。「私を奴隷として売ってくれ。そしてその金で君たち4人は帰れる」。

4人は無事倭に帰ることができたが、博麻はその後30年唐に留まることになる。

30年後持統天皇四年、唐で学ぶ学問僧に見出され、博麻はようやくに帰国することができた。

この話を聞いた持統天皇はいたく感激し、その行為を「朝を尊び、国を愛ふ」と褒め、莫大な恩賞を博麻に与えた。

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この美談に出てくる「愛国」という文字が、正史に出てくる最初ということで、20世紀になって、

時の首相近衛文麿は、この博麻の愛国心を例にあげて戦争への志気高揚を鼓舞したという。

皇国史観そのものである。

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奈良県高取町に、斉明天皇陵(越智崗上陵)がある。

斉明天皇、はじめ高向王と結婚して子どももできたのに、バツイチになって、

舒明天皇と再婚して、皇后になった。バツイチもこのような再婚ができれば幸せや。

天智天皇、天武天皇、間人皇后(孝徳天皇の皇后)を産み、歴史の中心人物の母親だ。すごい。

本人も、舒明天皇の後、皇極天皇となり、乙巳の変を経験し、孝徳天皇亡き後、また重祚して斉明天皇となり、

百済救援のため九州までやって来て、この朝倉の地で生涯を終えた。67歳という。

波乱の人生やったかもしれない。そんな歳になっても天皇の位にいて、戦争の指揮をとるなど可哀そうやなあ。

子ども、孫も連れての遠征ではあったが。

きっと、奈良の飛鳥の都で、のんびりと孫とあそびながら余生を送りたかっただろうに。

いまどきのばあさんだって、奈良から九州まで船に乗って戦争に行けと云われたら、腰抜かすと思う。

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この陵には、娘である間人皇后と、孫の建王が合葬されている。

建王は中大兄皇子の子で、亡くなったとき斉明天皇は悲しみの極み、「萬歳千秋の後に、要ず朕が陵に合せ葬れ」とのたまう。

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斉明天皇陵に登る途中に、大田皇女陵がある。大伯皇女、大津皇子の母である。

同行して九州に向かい、出発2日目に大伯皇女を出産、2年後、まだ九州にいて娜大津で出産、大津皇子という。

この大田皇女が早世されたため、ふたりの子どもに悲しい人生を歩ますことになってしまった。

『日本書紀』天智天皇六年春二月の条に、次のような記事がある。

六年の春二月の壬辰の朔戊午。天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。

是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す。

高麗・百済・新羅、皆御路に哀奉る。

皇太子、群臣に謂りて曰はく、「我、皇太后天皇の勅したまへる所を奉りしより、万民を憂へ恤む故に、石槨の役を起さしめず。

冀ふ所は、永代に以て鏡誡とせよ」とのたまふ。

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『日本書紀』

(六年)秋七月の庚子の朔乙卯に、高麗の使人乙相賀取文等、罷り帰りぬ。又、覩貨羅人乾豆波斯達阿、本土に帰らむと欲ひて、送使を求ぎ請して曰さく、「願はくは後に大国に朝らむ。所以に、妻を留めて表とす」とまうす。乃ち数十人と、西海之路に入りぬ。高麗の沙門道顕の日本世記に曰はく、七月に云云。春秋智、大将軍蘇定方の手を借りて、百済を挟み撃ちて亡しつ。或いは曰はく、百済、自づからに亡びぬ。君の大夫人の妖女無道くして、擅に国柄を奪ひて、賢良を誅し殺すに由りての故に、斯の禍を召けり。慎まざるべけむや。慎まざるべけむやといふ。其の注に云はく、新羅の春秋智、願を内臣蓋金に得ず。故、亦唐に使へて、俗の衣冠を捨てて、媚を天下に請して、禍を隣国に投して、斯の意行を構ふといふ。伊吉連博徳書に云はく、庚申の年の八月に、百済已に平けて後に、九月十二日に、客を本国に放す。十九日に、西京より発つ。十月十六日に、還りて東京に到りて、始めて阿利麻等五人に相見ること得たり。十一月一日に、将軍蘇定方等が為に捉ゐられたる百済の王より以下、太子隆等、諸の王子十三人、大佐平沙宅千福・国辨成より以下三十七人、并て五十許の人、朝堂に奉進る。急に引て天子に?向く。天子恩勅みて、見前にして放着したまふ。十九日に、賜労ふ。二十四日に、東京より発つ。
九月の己亥の朔癸卯に、百済、達率、名を闕せり、沙弥覚従等を遣して、来て奏して曰さく、或本に云はく、逃げ来て難を告すといふ。「今年の七月に、新羅、力を恃み勢を作して、隣に親びず。唐人を引構せて、百済を傾け覆す。君臣総俘にして、略?類無し。或本に云はく、今年の七月十日に、大唐の蘇定方、船師を率て、尾資の津に軍す。新羅の王春秋智、兵馬を率て、怒受利山に軍す。百済を夾み撃ちて、相戦ふこと三日。我が王城を陥る。同月の十三日に、始めて王城を破る。怒受利山は、百済の東の堺なりといふ。是に、西部恩率鬼室福信、赫然り発憤りて、任射岐山に拠る。或本に云はく、北任叙利山なりといふ。達率余自進、中部久麻怒利城に拠る。或本に云はく、都都岐留山なりといふ。各一所に営みて、散けたる卒を誘り聚む。兵、前の役に尽きたり。故、?を以て戦ふ。新羅の軍破れぬ。百済、其の兵を奪ふ。既にして百済の兵翻りて鋭し。唐敢へて入らず。福信等、遂に同国を鳩め集めて、共に王城を保る。国人尊びて曰はく、佐平福信、佐平自進といふ。唯し福信のみ、神しく武き権を起して、既に亡ぶる国を興す」とまうす。
冬十月に、百済の佐平鬼室福信、佐平貴智等を遣して、来て唐の俘一百余人を獻る。今美濃国の不破・片縣、二郡の唐人等なり。又、師を乞して救を請ふ。并て王子余豊璋を乞して日さく、或本に云はく、佐平貴智・達率正珍なりといふ。「唐人、我が?賊を率て、来りて我が疆?を蕩搖はし、我が社稷を覆し、我が君臣を俘にす。百済の王義慈、其の妻恩古、其の子隆等、其の臣佐平千福・国辨成・孫登等、凡て五十余、秋七月十三日に、蘇将軍の為に捉ゐられて、唐国に送去らる。蓋し是、故無くして兵を持ちし徴か。而も百済国、遙に天皇の護念に頼ぶりて、更に鳩め集めて邦を成す。方に今、謹みて願はくは、百済国の、天朝に遣し侍る王子豊璋を迎へて、国の主とせむとす」と、云云。詔して曰はく、「師を乞ひ救を請すことを、古昔に聞けり。危を扶け絶えたるを継ぐことは、恆の典に著れたり。百済国、窮り来りて我に帰るに、本邦の喪び乱れて、依るところ靡く告げむところも靡しといふを以てす。戈を枕にし膽を嘗む。必ず拯救を存てと、遠くより来りて表啓す。志奪ひ難きこと有り。将軍に分ち命せて、百道より倶に前むべし。雲のごとくに会ひ雷のごとくに動きて、倶に沙■さたくに集らば、其の鯨鯢を翦りて、彼の倒懸を?べてむ。有司、具に為与へて、礼を以て発て遣せ」と、云云。王子豊璋及び妻子と、其の叔父忠勝等とを送る。其の正しく発遣ちし時は、七年に見ゆ。或本に云はく、天皇、豊璋を立てて王とし、塞上を立てて輔として、礼を以て発て遣すといふ。
十二月の丁卯の朔庚寅に、天皇難波宮に幸す。天皇、方に福信が乞す意に隨ひて、筑紫に幸して、救軍を遣らむと思ひて、初づ斯に幸して、諸の軍器を備ふ。
是歳、百済の為に、将に新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已に訖りて、続麻郊に挽き至る時に、其の船、夜中に故も無くして、艫舳相反れり。衆終に敗れむことを知りぬ。科野国言さく、「蝿群れて西に向ひて、巨坂を飛び踰ゆ。大きさ十囲許。高さ蒼天に至れり」とまうす。或いは救軍の敗績れむ怪といふことを知る。童謡有りて曰はく、
  まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへたをらふくのりかりが
七年の春正月の丁酉の朔壬寅に、御船西に征きて、始めて海路に就く。甲辰に、御船、大伯海に到る。時に、大田姫皇女、女を産む。仍りて是の女を名けて、大伯皇女と曰ふ。庚戌に、御船、伊豫の熟田津の石湯行宮に泊つ。
三月の丙申の朔庚申に、御船、還りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居ます。天皇、此を改めて、名をば長津と曰ふ。
夏四月に、百済の福信、使を遣して表を上りて、其の王子糺解を迎へむと乞す。釈道顕が日本世記に曰はく、百済の福信、書を獻りて、其の君糺解を東朝に祈すといふ。或本に云はく、四月に、天皇、朝倉宮に遷り居ますといふ。
五月の乙未の朔癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。是の時に、朝倉社の木を?り除ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮の中に鬼火見れぬ。是に由りて、大舍人及び諸の近侍、病みて死れる者衆し。丁巳に、耽羅、始めて王子阿波伎等を遣して貢獻る。伊吉連博得書に云はく、辛酉の年の正月二十五日に、還りて越州に到る。四月一日に、越州より上路して、東に帰る。七日に、?岸山の明に行到る。八日の鶏鳴之時を以て、西南の風に順ひて、船を大海に放つ。海中に途を迷ひて、漂蕩ひ辛苦む。九日八夜ありて、僅に耽羅嶋に到る。便即ち嶋人王子阿波伎等九人を招き慰へて、同じく客の船に載せて、帝朝に獻らむとす。五月二十三日に、朝倉の朝に奉進る。耽羅の入朝、此時に始れり。又、智興が{人東漢草直足嶋の為に讒されて、使人等寵命を蒙らず。使人等が怨、上天の神に徹りて、足嶋を震して死しつ。時の人称ひて曰へらく、「大倭の天の報近きかな」といへりといふ。
六月に、伊勢王、薨せぬ。
秋七月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。
八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ。
冬十月の癸亥の朔己巳に、天皇の喪、帰りて海に就く。是に、皇太子、一所に泊てて、天皇を哀慕ひたてまつりたまふ。乃ち口号して曰はく、
  君が目の 恋しきからに 泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り
乙酉に、天皇の喪、還りて難波に泊れり。
十一月の壬辰の朔戊戌に、天皇の喪を以て、飛鳥の川原に殯す。此より発哀ること、九日に至る。日本世記に云はく、十一月に、福信が獲たる唐人続守言等、筑紫に至るといふ。或本に云はく、辛酉の年に、百済の佐平福信が獻れる唐の俘一百六口、近江国の墾田に居らしめたりといふ。庚申の年に、既に福信、唐の俘を獻れりと云へり。故、今存きて注す。其れ決めよ。
『日本書紀』
 
持統天皇四年十月乙丑に、軍丁筑後国の上陽東Sの人大伴部博麻に詔して曰はく、「天豊財重日足姫天皇の七年に、百済を救ふ役に、汝、唐の軍の為に虜にせられたり。天命開別天皇の三年に泊びて、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝の児、四人、唐人の計る所を奏聞さむと思欲へども、衣粮無きに縁りて、達くこと能はざることを憂ふ。是に、博麻、土師富杼等に謂りて曰はく、『我、汝と共に、本朝に還向かむとすれども、衣粮無きに縁りて、倶に去くこと能はず。願ふ、我が身を売りて、衣食に充てよ』といふ。富杼等、博麻が計の依に、天朝に通くこと得たり。汝、独他界に淹滯ること、今に三十年なり。朕、厥の朝を尊び国を愛ひて、己を売りて忠を顕すことを嘉ぶ。故に務大肆、并て?五匹・綿一十屯・布三十端・稲一千束・水田四町賜ふ。其の水田は曽孫に及至せ。三族の課役を免して、其の功を顕さむ」とのたまふ。

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