天豊財重日足姫天皇 斉明天皇

大韓民国忠清南道扶余郡扶余邑

百済滅亡

扶余・皐蘭寺「落花岩絵図」

・・・・・

百済は、唐と新羅の連合軍の攻撃を受け、660年滅亡する。

『日本書紀』斉明紀に、「高麗の沙門道顕の日本世紀に曰はく」として、

春秋智、大将軍蘇定方の手を借りて、百済を挟み撃ちにして亡ぼす。

その注に、新羅の春秋智、高句麗の内臣蓋金に支援の願いを受け入れられず、唐に使いを送った。

新羅の服を捨て唐服を着て、天子に媚びて、隣国を併呑しようと準備した。

伊吉連博徳の書には、将軍蘇定方は、捕らえた百済王、太子、王子、臣下たち50人余を都洛陽に連れていった。

天子は恵みて、捕虜たちを釈放した、とある。

・・・

百済王とは義慈王であるが、このとき唐で病死したという。

戦況は、『三国史記』の「百済本紀」に、

唐軍は湖水に乗り船艦を連ねて進みながら太鼓を打ち鳴らして騒いだ。

定方は歩・騎兵を連れてその都城に直行し、30里ほどの所で留まった。わが軍は全力で防戦したがまた敗れた。

死者は万余人に達した。唐兵は勝ちに乗じて城に肉迫した。王はもはや勝ち目はないと知って、太子孝と北へ逃げた。

定方がその城を包囲すると、王の次男泰が王となり、衆徒を率いて固く守った。

王の三男隆と太子の子文思とは、泰の下でも勝ち目はないと投降した。そのため衆徒も戦意を失くした。

定方が城壁の上に唐の旗を立てると、泰はもうこれまでと城門を開け降伏した。

・・・

韓国・扶余、その北を錦江(白馬江)が流れる。

その左岸に、扶蘇山城がある。

・・・

百済国その最後の都として知られるのが、百済時代は泗?といわれていた扶余である。

当時の扶余は錦江(白馬江)を望む扶蘇山を砦とし、そのふところに条里制の市街地を築いた計画都市であった。

仏教文化の花開く都であったが、唐と結んだ隣国の新羅に攻め滅ぼされてしまう。

扶蘇山城は、日常は官廷の御苑として利用されていたが、有事の際には王宮を防御する最後の城郭であった。

ここに錦江を望む絶壁があり、落花岩と呼ばれている。落花岩という名前には、悲しい言い伝えがある。

唐・新羅の連合軍に襲撃されたとき、辱めを受けるのを嫌った官女たちがこの岩から次々と錦江に身を投げ、

その様子がまるで鮮やかな花々が落ちていくようであったというのだ。

・・・

落花岩

落花岩の頂上には、皐蘭寺がある。

多くの女官たちがここから身を投げたという落花岩である。

←次へ              次へ→

記紀の旅下巻一覧表に戻る

記紀の旅

『古事記』 『日本書紀』 『風土記』

万葉集を携えて

inserted by FC2 system