建小広国押楯命(武小広国押盾天皇) 宣化天皇 奈良県高市郡明日香村檜前 檜隈の廬入野宮 宣化天皇の檜隈の廬入野宮址碑は、明日香村檜隈の於美阿志神社の境内に立つ。 於美阿志神社 祭神は、阿智使主である。 阿智使主は、『日本書紀』応神紀に、 二十年の秋九月に、倭漢直の祖阿知使王、其の子都加使王、並に己が党類十七縣を率て、来帰り。 とあり、ここ檜隈を本拠地とした東漢氏やまとのあやうじの祖である。 ちなみに漢氏には、河内国を本拠地にした阿直岐の子孫の西漢氏かわちのあやうじがあり、いずれも渡来系氏族である。 『新撰姓氏録』阿智王を下段に載せる。 ・・・・・ 神社の名がおかしいなあ。於美阿志は「おみあし」である。逆さにすると「あしおみ」、すなわち「あちおみ」なのである。 東漢氏は崇仏派の蘇我氏の配下にあり、仏教伝来にも関わったと思われる。 ちょうどこの宣化天皇の頃に仏教が伝来している。 欽明天皇7年(538)は宣化天皇3年なのである。欽明元年は532年と540年と、二度元年がある。 『日本書紀』には、欽明天皇13年(552)、百済の聖明王が釈迦仏像と経論を献る、とある。 ところが、「元興寺縁起」や「上宮聖徳法王帝説」には欽明天皇7年(538)とあり、ややこしい。 私たち(中高年)は、「552、ここに仏教伝来」と、552年と習った。 ところが次の世代(息子や娘)は、「538、仏教ごさんぱい」と、538年と習った。『日本書紀』が嘘ついてると決めた。 これがどうやら孫の世代では、552年説に戻りそうである。 韓国・公州にある聖明王の父武寧王の墓から墓誌が発見された。 息子聖明王の即位が523年と記されていて、これは『日本書紀』の記述とぴったり合って、 『日本書紀』が、嘘つきではなく、えらい信用してもらって、それなら仏教伝来も552年との説が有力になった。 話がどんどん横道にいくが、 私の学ぶ大学は仏教の大学であるが、仏教史の講義は538年説である。仏教関連資料を優先する。 ところが、日本史の講義になると、552年説になる。『日本書紀』を正しいとする。 どちらかが嘘ついてるわけで、真実を仏さまに聞いてみたいものだ。「いつ日本にこられましたか」と。 先ほどの、欽明7年は宣化3年というのもややこしい。 安閑天皇と宣化天皇の王朝は、継体天皇が亡くなってすぐに即位した弟の欽明天皇の王朝と並立していたという説で、 西暦年号ひとつに、安閑・宣化年号と欽明年号とのふたつがある。 また、安閑・宣化は架空の王朝という説もあり、さらには安閑・宣化は暗殺されて、歴史から抹殺されたという説もある。 ・・・・・ 話を戻す。檜隈の於美阿志神社辺りに、宣化天皇の廬入野宮があったとされるが、 境内には7世紀末創建とされる檜隈寺跡がある。 塔跡に立つ十三重石塔は平安時代のものとされるが、重要文化財に指定されている。 ・・・・・ 奈良県橿原市鳥屋町に、宣化天皇陵(身狭桃花鳥坂上陵)がある。 『日本書紀』には、皇后橘皇女及び其の孺子を以て、是の陵に合せ葬る、とある。 ・・・・・・・ 『日本書紀』 武小広国押盾天皇は、男大迹天皇の第二子なり。勾大兄広国押武金日天皇の同母弟なり。二年の十二月に、勾大兄広国押武金日天皇、崩りまして嗣無し。群臣、奏して剣鏡を武小広国押盾尊に上りて、即天皇之位さしむ。是の天皇、人と為り、器宇清く通りて、神襟朗に邁ぎたまへり。才地を以て、人に矜りて王したまはず。君子の服ふ所なり。 元年の春正月に、都を檜隈の廬入野に遷す。因りて宮号とす。 二月の壬申の朔に、大伴金村大連を以て大連とし、物部麁鹿火大連をもて大連とすること、並に故の如し。又蘇我稲目宿禰を以て大臣とす。阿倍大麻呂臣をもて大夫とす。 三月の壬寅の朔に、有司、皇后を立てむと請す。己酉に、詔して曰はく、「前の正妃億計天皇の女橘仲皇女を立てて皇后とせむ」とのたまふ。是一の男・三の女を生めり。長を石姫皇女と曰す。次を小石姫皇女と曰す。次を倉稚綾姫皇女と曰す。次を上殖葉皇子と曰す。亦の名は椀子。是丹比公・偉那公、凡て二姓の先なり。前の庶妃大河内稚子媛、一人の男を生めり。是を火焔皇子と曰す。是椎田君の先なり。 『新撰姓氏録』阿智王 天皇、その来志を矜び、阿智王と号て、使主と為す。仍て大和国檜前郡を賜はり、これに郷居す。時に阿智使主、奏して言く、臣、入朝の時、本郷の人民往て離散す。今聞く、?く、高麗、百済、新羅等の国に在りと。望み請ふらくは、使を遣はして喚び来さしめむ。天皇、即ち使を遣はして、之を喚ぶ。 大鷦鷯天皇諡仁徳の御世に、落をあげて、随ひ来る。 …中略… 時に阿智王、奏して、今来郡を建て、後に改めて高市郡と号く。而して人衆巨多く、居地隘狭にして、更に諸国に分置 く。摂津、参河、近江、播磨、阿波等の漢人の村主、是なり。 |
記紀の旅
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