建小広国押楯命(武小広国押盾天皇) 宣化天皇

佐賀県唐津市

領布振山(鏡山)

『日本書紀』に、

二年の冬十月の壬辰の朔に、天皇、新羅の任那に寇ふを以て、大伴金村大連に詔して、其の子磐と狭手彦とを遣して、任那を助けしむ。

是の時に、磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加百済を救ふ。

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肥前風土記』逸文に、

?搖岑ひれふりのみね

肥前の国の風土記に云はく、松浦の縣。縣の東六里に?搖の岑あり。最頂に沼あり。半町ばかりなり。俗、伝へて云へらく、昔者、檜前の天皇のみ世、大伴の紗手比古を遣りて任那の国を鎮めしめたまひき。時に、命を奉りて此の墟を経過ぎき。ここに、篠原の村に娘子あり、名を乙等比売と曰ふ。容貌端正しく、孤り国色たりき。紗手比古、便ち娉ひて成婚ひき。離別るる日、乙等比売、此の峯に登り望けて、?を挙げて搖り招きき。因りて名と為す。

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朝鮮半島南部にあった伽耶諸国(任那)が新羅の侵攻にあっているという。

宣化天皇は、大伴金村の息子子磐と狭手彦に命じて、救援に向わせた。

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『肥前風土記』は娘の名前を乙等比売というが、又の名を佐用姫といい、

佐賀県唐津市の鏡山につぎのような伝説が残る。

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松浦佐用姫伝説

天皇の命を受けた狭手彦は、この地松浦の篠原長者の家に滞在して軍船の準備をした。

そして何時とはなしに長者の娘佐用姫と恋仲となった。

やがて出陣となり狭手彦は断ち難い佐用姫への思いを残して出帆した。

姫は去り行く船影を求め鏡山に登り、領布を振って見送った。

別れの辛さに姫の目は涙で溢れ、流れる涙は水溜りとなり、後に山頂の池となったという。

別れの悲しみに狂乱した姫は山を降り、松浦川を渡り対岸の岩瀬(佐用姫岩という)に這い上がり、

狭手彦を追って呼子加部島へと走った。

しかし船影はすでになく、姫は天童山で七日七晩泣き続け遂に石になったという。

後世土地の人は姫を偲び望夫石と名付けた。

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鏡山(領巾振山)

鏡山に登る、といっても頂上まで車で行けるが。山頂からの唐津湾はすばらしい。高島・神集島が浮ぶ。

佐用姫はここから領巾を振りつづけた。

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任那・百済を救うため船出した狭手彦、追い難きを知って領巾を振る佐用姫、ついには石になってしまったという。

伝説にいう「佐用姫岩」が唐津市和多田にある。

佐用姫が鏡山から飛び降りたのがこの松浦川河口の岩の上で、いまでもその足跡が凹んで残っていると伝わる。

唐津市呼子町加部島に田島神社があり、境内に佐用姫神社が祀られる。

神体は、七日七晩泣きつづけて遂に石となってしまった佐用姫、その石を望夫石と名付けて祀る。


佐用姫神社

望夫石

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佐用姫生誕地

東松浦郡厳木きゅうらぎ町は佐用姫の生誕地といわれる。

牧瀬にある道の駅「厳木」には、高さが12bという佐用姫の像が立つ。

台座が回転し、佐用姫は20分ほどでぐるっと1周厳木の町を見渡している。

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