伊久米伊理毘古伊佐知命(活目入彦五十狭茅天皇) 垂仁天皇

天日槍

滋賀県

近江国の吾名邑に入りて、暫く住む

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『日本書紀』に、

垂仁天皇三年春三月、新羅の王の子天日槍が、神の宝物をいっぱい持って渡来して来た。

播磨国にいると聞いて、天皇は使いを遣った。

「なんで日本に来たんや?」

「私は新羅国の王の子、日本に偉い天皇がいると聞いて、国は弟に譲り、日本に住みたいと思ってやってきた。」

「そうか、なかなか感心や。それじゃ、播磨国宍粟邑と淡路島の出浅邑をお前にやろう。」

「それはうれしいことやけど、やっぱり自分の住む所は自分で決めたい。あちこち行ってみたいけど・・・」

「よっしゃ、わかった。自分でこのひろい日本を歩いてみよ」

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天日槍は、宇治川をさかのぼり、近江国の吾名邑に入り、しばらく住んでみた。

そしてまた、若狭国へ行き、さらに但馬国に到ってそこを住居と決めた。

近江国の鏡邑の谷の陶人は、天日槍の従人がそこに留まった人たちである。

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近江国の吾名邑あなむら

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滋賀県竜王町綾戸に、「苗村神社なむら」が鎮座する。

鏡山の東麓にある。吾名邑(あなむら)という地名が苗村になったという。

鏡山の麓にある鏡邑にも隣接していることからも、ここが吾名邑という。


楼門

西本殿

東本殿

那牟羅彦神・那牟羅姫神を祀る東本殿、国狭槌命を祀る西本殿をそれぞれ独立した社地を有する。

延喜式の蒲生郡十一座のうち「長寸神社(なかす)」を東本殿に比定する。

寸の字を村の略字として長寸をなかむらと訓じ、これがなむらに転じたとする。

社伝(由緒)には、

ここが天日槍にいう吾名邑であり、後に那牟羅と略称されたが、地名の那牟羅と同音になる長寸の字に替え長寸神社と称した、とある。

これが苗村となったのは、この長寸郷より正月門松用の松苗を朝廷に献じることが恒例となったため、後一条天皇より苗村の称号を賜ったという。

社伝に、天日槍との関連は伝わらない。

鏡山

苗村神社の社伝からは積極的な天日槍「吾名邑」説は伺えない。

ところが、苗村神社がある竜王町綾戸の隣の集落は竜王町須恵といい、須恵器を伝える地名が残り、

事実、鏡山の山麓周辺には古窯跡が多く見つかっている。「鏡邑の谷の陶人」はこの地なのである。

 

鏡山神社 滋賀県竜王町鏡

鏡山の北麓に鎮座する鏡山神社は、天日槍を祭神として祀る。

神社由緒には、

「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とある。

この辺りを吾名邑とし、「鏡邑の谷の陶人」の地とする条件はかなり揃っている。

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ところが、滋賀県草津市には穴村町という地名が残り、「安羅神社」がある。

神社の境内には、「天日槍命暫住之聖蹟」碑が立つ。

神社由緒には、

「日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する」とあり、祭神は天日槍命とする。

「近江国の吾名邑」は、ここ穴村に比定する。

天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類を留め、後それらの人々が彼を祖神としてその恩徳を慕うて神として社を創建した。

この安羅神社である。

安羅という社名は、韓国慶尚南道の地名に同種の安羅・阿羅があり、

天日槍を尊崇するとともに、故郷の地名に執着して社名にしたものと思われる。

社宝として古来神殿に蔵されている数十個の小判型黒色の小石は、従前その由来が判明しなかったが、

近年有識者によると、この小石は野洲川源流地帯に多い玄武岩と同質とされ、

その黒色をなしているのは火にあぶって温め(温石として)患部に当て治療に使用したものと解かった。

このことは今日の鍼灸の原型をなす医術であるとされる。

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坂田郡阿那郷

米原市の旧近江町は旧坂田郡にあり、(市町村合併で、本当に説明がしにくい)、この辺りは「坂田郡阿那郷」と呼ばれていた。

阿那郷が後に息長郷になった。(息長郷は神功皇后の関連地名である。)

この阿那郷が「吾名邑」であるという。米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立つ。

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『古事記』(応神天皇)に、

「天之日矛、由良度美を娶して生みし子、葛城の高額比売命、こは息長帯比売命の御祖なり」とあり、

天日槍とこの地息長郷・阿那郷との関連もありそうだ。

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米原市菅江(旧山東町)に、伊奘諾神社がある。

この神社にはつぎのような口伝がある。

古老の伝に、村の南西大谷山の中腹に、百人窟という洞穴があり、息長族系の人々が住んでいた。

阿那郷と呼ばれる渡来人の遺跡と思われる。

これらの人々は須恵器を作って、集団生活が始まったという。この地は古代の窯業跡とも云われる。

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近江国に足跡を残して、天日槍は但馬国へ向った。

兵庫県豊岡市出石町宮内に、出石神社がある。

祭神は、天日槍命と出石八前大神。

出石八前大神とは、天日槍が新羅から持ってきた八種の神宝のこと。

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天日槍の渡来のことは、『古事記』や『日本書紀』の話と思っていたら、新羅の史書にもこんな話がある。

天日槍とは記されていないが、よく似た話。

『三国遺事』に、

延烏郎 細烏女

第八代阿達羅王の即位四年丁酉に、東海の浜に、延烏郎と細烏女という夫婦が住んでいた。ある日、延烏が海で藻を採っていると、突然大きな岩が(魚ともいう)、彼を負って日本へ運んでいった。その国の人がこれを見て、これはただならぬ人だとして、王にたてまつった(『日本帝紀』によれば、この前後に新羅人が王となった記録がないので、辺鄙な村の小王のことで、真の王ではないらしい)。
細烏は夫が帰ってこないのを不思議に思い、浜辺に行ってみると、夫が脱いだ履物が岩の上にあった。そしてその岩がまた同じように彼女を負って運んでいった。その国の人は驚いて、王に申しあげた。それでようやく夫婦が再会し、貴妃とした。
このとき新羅では、太陽と月の光が消えてしまった。日官は申しあげるには、「太陽と月の精が我国にあったが、今は日本に行ってしまったため、このような異変がおこってしまった」という。王は使者を遣ってふたりをさがしたところ、延烏は、「私がこの国に来たのは、天がそうさせたのだから、今にどうして帰れようか。だが、私の妃が織った細?がここにある。これを以って天を祭ればよい」と、その絹織物を賜わった。使者は帰って奏上し、その通りに祭ると、太陽も月も元通り輝いた。その絹織物を庫に蔵めて国の宝物とし、その庫を貴妃庫と名付け、祭天したところを迎日縣、また都祈野と名付けた。

第八阿達羅王即位四年丁酉。東海濱有延烏郎細烏女。夫婦而居。一日延烏歸海採藻、勿有一巖。一云魚。負歸日本。國人見之曰。此非常人也。乃爲王。按日本帝記。前後無新羅人爲王者。此乃邊邑小王、而非眞王也。細烏恠夫不來歸來尋之。見夫脱鞋。亦上其巖。巖亦負歸如前。其國人驚訝。奏獻於王。夫婦相會。立爲貴妃。是時新羅日月無光。日者奏云。日月之精、降在我國。今去日本。故到斯怪。王遣使求二人。延烏曰。我到此國。天使然也。今何歸乎。雖然朕之妃有所織細?。以此祭天可矣。仍賜其?。使人來奏。依其言而祭之。然後日月如舊。藏其?於御庫爲國寶。名其庫爲貴妃庫。祭天所。名迎日縣。又都祈野。

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『日本書紀』

三年の春三月に、新羅の王の子天日槍来帰り。将て来る物は、羽太の玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿の赤石の玉一箇・出石の小刀一口・出石の桙一枝・日鏡一面・熊の神籬一具、并せて七物あり。則ち但馬国に蔵めて、常に神の物とす。一に云はく、初め天日槍、艇に乗りて、播磨国に泊りて、宍粟邑に在り。時に天皇、三輪君が祖大友主と、倭直の祖長尾市とを播磨に遣して、天日槍を問はしめて曰はく、「汝は誰人ぞ、且、何の国の人ぞ」とのたまふ。天日槍対へて曰さく、「僕は新羅国の主の子なり。然れども日本国に聖皇有すと聞りて、則ち己が国を以て弟知古に授けて化帰り」とまうす。仍りて貢獻る物は、葉細の珠・足高の珠・鵜鹿鹿の赤石の珠・出石の刀子・出石の槍・日鏡・熊の神籬・膽狭浅の大刀、并せて八物あり。仍りて天日槍に詔して曰はく、「播磨国の宍粟邑と、淡路島の出浅邑と、是の二の邑は、汝任意に居れ」とのたまふ。時に天日槍、啓して曰さく、「臣が住まむ處は、若し天恩を垂れて、臣が情の願しき地を聴したまはば、臣親ら諸国を歴り視て、則ち臣が心に合へるを給はらむと欲ふ」とまうす。乃ち聴したまふ。是に、天日槍、菟道河より泝りて、北近江国の吾名邑に入りて、暫く住む。復更近江より若狭国を経て、西但馬国に到りて則ち住處を定む。是を以て、近江国の鏡村の谷の陶人は、天日槍の従人なり。故、天日槍、但馬国出嶋の人太耳が女麻多烏を娶りて、但馬諸助を生む。諸助、但馬日楢杵を生む。日楢杵、清彦を生む。清彦、田道間守を生むといふ。

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『播磨国風土記』 揖保郡

粒丘 粒丘と号くる所以は、天日槍命、韓国より度り来て、宇頭の川底に到りて、宿処を葦原志挙乎命に乞はししく、「汝は国主たり。吾が宿らむ処を得まく欲ふ」とのりたまひき。志挙、即ち海中を許しましき。その時、客の神、剣を以ちて海水を撹きて宿りましき。主の神、即ち客の神の盛なる行を畏みて、先に国を占めむと欲して、巡り上りて、粒丘に到りて、?したまひき。ここに、口より粒落ちき。故、粒丘と号く。其の丘の小石、皆能く粒に似たり。又、杖を以ちて地に刺したまふに、即ち杖の処より寒泉涌き出でて、遂に南と北とに通ひき。北は寒く、南は温し。白朮生ふ。

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『古事記』 応神天皇

又昔、新羅の国主の子有りき。名は天之日矛と謂ひき。是の人参渡り来つ。参渡り来つる所以は、新羅国に一つの沼有り。名は阿具奴摩と謂ひき。此の沼の辺に、一賎しき女昼寝しき。是に日虹の如く耀きて、基の陰上に指ししを、亦一賎しき夫、其の状を異しと思ひて、恒に其の女人の行を伺ひき。故、是の女人、其の昼寝せし時より妊身みて、赤玉を生みき。爾に其の伺へる賎しき夫、其の玉を乞ひ取りて、恒に裹みて腰に著けき。此の人田を山谷の間に営りき。故、耕人等の飮食を、一つの牛に負せて山谷の中に入るに、其の国主の子、天之日矛に遇逢ひき。爾に其の人に問ひて曰ひしく、「何しかも汝は飮食を牛に負せて山谷に入る。汝は必ず是の牛を殺して食ふならむ。」といひて、即ち其の人を捕へて、獄囚に入れむとすれば、其の人答へて曰ひしく、「吾牛を殺さむとには非ず。唯田人の食を送るにこそ。」といひき。然れども猶赦さざりき。爾に其の腰の玉を解きて、其の国主の子に幣しつ。故、其の賎しき夫を赦して、其の玉を将ち来て、床の辺に置けば、即ち美麗しき孃子に化りき。仍りて婚ひして嫡妻と為き。爾に其の孃子、常に種種の珍味を設けて、恒に其の夫に食はしめき。故、其の国主の子、心奢りて妻を詈るに、其の女人の言ひけらく、「凡そ吾は、汝の妻と為るべき女に非ず。吾が祖の国に行かむ。」といひて、即ち竊かに小船に乗りて逃遁げ渡り来て、難波に留まりき。此は難波の比売碁曽の社に坐す阿加流比売神と謂ふ。
是に天之日矛、其の妻の遁げしことを聞きて、乃ち追ひ渡り来て、難波に到らむとせし間、其の渡の神、塞へて入れざりき。故、更に還りて多遅摩国に泊てき。即ち其の国に留まりて、多遅摩の俣尾の女、名は前津見を娶して、生める子、多遅摩母呂須玖。此の子、多遅摩斐泥。此の子、多遅摩比那良岐。此の子、多遅摩毛理。次に多遅摩比多訶。次に清日子。三桂。此の清日子、当摩の灯繧娶して、生める子、酢鹿之諸男。次に妹菅竃由良度美。故、上に云へる多遅摩比多訶、其の姪、由良度美を娶して、生める子、葛城の高額比売命。此は息長帶比売命の御祖なり。故、其の天之日矛の持ち渡り来し物は、玉津宝と云ひて、珠二貫。又浪振る比礼、浪切る比礼、風振る比礼、風切る比礼。又奥津鏡、辺津鏡、并せて八種なり。此は伊豆志の八前の大神なり。

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