伊久米伊理毘古伊佐知命(活目入彦五十狭茅天皇) 垂仁天皇

多遅摩毛理(田道間守)

非時の香菓 ときじくのかくのみ

奈良市尼辻町

垂仁天皇陵

奈良市尼辻町にある垂仁天皇陵を訪ねた。

この日は、堀の掃除をするためであろう、堀の水はほとんどなく、田道間守の塚といわれる円墳も浮き上がっていた。

田道間守の塚は、垂仁天皇陵の東南角の堀中に浮ぶ。拝所があり、石碑には「菓祖神田道間守命御塚拝所」とある。

  

田道間守は非時の香菓を求めて常世国へ10年余、ようやくに木の実を持って戻ってみると既に天皇は亡くなっていた。

常世国は中国ともインドともいわれるが定かではない。

泣き崩れ、泣き叫んで田道間守は亡くなったという。天皇陵に寄り添うように田道間守の墳墓がある。

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『日本書紀』垂仁天皇三年春三月に天日槍のことが記される。

「天日槍は但馬国の出石の人、太耳の娘麻多烏を娶って、但馬諸助を生んだ。諸助は但馬日楢杵を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。

清彦は田道間守を生んだという。」とある。田道間守は新羅からきた王子天日槍の子孫という。田道間守とは但馬守のことだろうか。

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また、非時の香菓は橘のことをいうとし、古代の菓子は果物のことも意味し、

この橘を持ち帰った田道間守をお菓子の神様「菓祖神」とするようだ。

天日槍の一族は但馬国を居処と定めた。その但馬国、今の兵庫県豊岡市三宅に中嶋神社がある。

田道間守を祭神とし、菓祖の神社として今も全国の菓子業の人々が崇拝する。

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中嶋神社 兵庫県豊岡市三宅

神社の由緒書に、

当神社の創立は古く、推古天皇の御代と云われ、現在の朱塗りの本殿は室町時代中期に但馬の領主山名氏により建立されたもので国宝に指定されている。祭神の田道間守命は、新羅の皇子で我国に渡来して帰化し、ここ但馬国を賜り、これを開発した天日槍命(出石神社の祭神)の曽孫で、垂仁天皇の命を受け、当時の菓子としては最高のものとして珍重された「非時香菓」(橘)を常世国(現在の韓国斉州島)に渡り、長い歳月をかけ、艱難辛苦のすえ持ち帰ったが、天皇は既に亡くなっており、命は悲嘆の余り、その御陵に非時香菓を献げた上、殉死された。時の景行天皇(垂仁天皇の第三皇子)は、命の忠誠心を哀れみ、御陵の池の中に墓を造らせた。推古天皇の御代になって、命の子孫で七代目の孫にあたる当地三宅に住む吉士中嶋の君という方が当社を創立し命を祀ったと伝えられる。中嶋神社の名は、御陵の中の命の墓が中の島に見えるところから名付けられたと云われ、いのちをかけて「非時香菓」を持ち帰った命を菓子の神様として祀るようになり、毎年4月「橘菓祭」が執り行われる。

神社境内には、田道間守生誕地とされる社もある。

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『万葉集』に橘を讃える歌として田道間守が登場する。

大伴宿禰家持の歌であるが、当時、家持の上司橘諸兄が葛城王から臣籍に降り橘姓を名乗ったこともこの歌につながるのかもしれない。

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橘の歌一首 并せて短歌

かけまくも あやに畏し 天皇の 神の大御代に 田道間守 常世に渡り 八桙持ち 参ゐ出来し時 時じくの かくの菓を

 畏くも 遺したまはれ 国も狭に 生ひ立ち栄え 春されば 孫枝萌いつつ ほととぎす 鳴く五月には 初花を 枝に手折りて

 娘子らに つとにも遣りみ 白栲の 袖にも扱入れ かぐはしみ 置きて枯らしみ あゆる実は 玉に貫きつつ 手に巻きて

 見れども飽かず 秋づけば しぐれの雨降り あしひきの 山の木末は 紅の にほひ散れども 橘の なれるその実は

 ひた照りに いや見が欲しく み雪降る 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず 常盤なす いやさかばえに しかれこそ

 神の御代より よろしなへ この橘を 時じくの かくの菓と 名付けけらしも 巻13−4111

反歌一首

橘は 花にも実にも 見つれども いや時じくに なほし見が欲し 巻13−4112

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全菓連のHPを拝見すると、そこに「田道間守」という歌が紹介されていた。

この歌は昭和17年刊行の国民学校初等科第三学年用の歌とある。

戦前は忠臣田道間守として子供たちの歌にも登場したのだ。戦前の教育方針そのものを語る歌であるが。

1.かおりも高い たちばなを 積んだお船が 今帰る  君の仰せを かしこみて 万里の海を まっしぐら  いま帰る 田道間守 田道間守
2.おわさぬ君の みささぎに 泣いて帰らぬ まごころよ  遠い国から 積んで来た 花たちばなの 香とともに  名はかおる 田道間守 田道間守

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ところで、江戸時代に描かれた山陵図にはこの田道間守の墳墓が描かれていないというややこしい話がある。

その山陵図を紹介すると、(『文久山陵図』新人物往来社から)


荒蕪図

成功図

多くの天皇陵が文久年間に修復されている。

この垂仁陵は、749両2分のお金をかけて、文久3年10月から元治元年3月までの6ヶ月で修復された。

その時の修復以前の墳丘を描いた「荒蕪図」と、修復による成果を描いた「成功図」が上の山陵図である。

ふむ?おや?確かに両図とも田道間守の円墳がない!

ところが、明治時代に書かれた谷森善臣(文化14〜明治44)の『山陵考』には

「菅原伏見東陵・・・垂仁天皇の御陵なり、大和国添下郡斎音寺村にあり、字を蓬莱山と呼ぶ、高さ六丈許めくり弐百拾三丈許あり、

陵山竹木いたく生茂たり、御在所のかた円く前方に南面に三段に築たり、四周に堀広くめくり、東方南依の水中に小山とよへる小き円墳あり、

山辺道勾岡上陵(崇神天皇陵)の堀中にも又小墳あり、いかなる故といふことを知らず・・・・・・」

ちゃんと円墳ありと書かれている。「いかなる故というふこと知らず」とはどういう意味でしょう?

ここから先は学者の方にまかせましょう。

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和歌山県海南市下津町橘本に、橘本神社がある。

この橘本神社は田道間守を祭神とする。

この辺は紀州みかんの産地として有名で、訪ねた日も収穫されたみかんが下津町の道路沿いにたくさん売られていた。

ここ橘本で買求めたがとても美味しい。

ここ下津町橘本は、田道間守が伝えた橘を日本で最初に移植された地という。

神社境内には神木「橘」と、上述した「田道間守の歌」の歌碑がある。

又、神社旧跡にはみかんの発祥地とする「六本樹橘創植の地」という碑もあった。


「六本樹橘創植の地」碑

神社由緒書より

下津町から有田市、この辺の山々は全山みかん畑といえるほどに植栽されている。

非時香菓を伝えた田道間守が大切に祀られている所以である。

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『古事記』

又天皇、三宅連等の祖、名は多遅摩毛理を常世の国に遣はして、登岐士玖能迦玖能木実を求めしめたまひき。故、多遅摩毛理、遂に其の国に到りて、其の木実を採りて縵八縵、矛八矛を将ち来りし間に、天皇既に崩りましき。爾に多遅摩毛理、縵四縵、矛四矛を分けて、大后に獻り、縵四縵、矛四矛を天皇の御陵の戸に獻り置きて、其の木実をフげて、叫び哭きて白ししく、「常世国の登岐士玖能迦玖能木実を持ちて参上りて侍ふ。」とまをして、遂に叫び哭きて死にき。其の登岐士玖能迦玖能木実は、是れ今の橘なり。此の天皇の御年、壹佰伍拾参歳。御陵は菅原の御立野の中に在り。又其の大后比婆須比売命の時、石祝作を定め、又土師部を定めたまひき。此の后は、狹木の寺間の陵に葬りまつりき。

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『日本書紀』

九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守に命せて、常世国に遣して、非時の香菓を求めしむ。今橘と謂ふは是なり。
九十九年の秋七月の戊午の朔に、天皇、纏向宮に崩りましぬ。時に年百四十歳。
冬十二月の癸卯の朔壬子に、菅原伏見陵に葬りまつる。
明年の春三月の辛未の朔壬午に、田道間守、常世国より至れり。則ち齎る物は、非時の香菓、八竿八縵なり。田道間守、是に、泣ち悲歎きて曰さく、「命を天朝に受りて、遠くより絶域に往る。万里浪を蹈みて、遥に弱水を度る。是の常世国は、神仙の秘区、俗の臻らむ所に非ず。是を以て、往来ふ間に、自づからに十年に経りぬ。豈期ひきや、独峻き瀾を凌ぎて、更本土に向むといふことを。然るに聖帝の神霊に頼りて、僅に還り来ること得たり。今天皇既に崩りましぬ。復命すこと得ず。臣生けりと雖も、亦何の益かあらむ」とまうす。乃ち天皇の陵に向りて、叫び哭きて自ら死れり。群臣聞きて皆涙を流す。田道間守は、是三宅連の始祖なり。

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