御眞木入日子印惠命(御間城入彦五十瓊殖天皇) 崇神天皇

倭迹迹日百襲姫命 やまとととひももそひめ

奈良県桜井市箸中

箸墓古墳

倭迹迹日百襲姫命は、大物主神の妻となった。

そやけど、毎晩夜にやってくるだけで、昼間はちっとも顔を出さん。

この時代は電気がないから、夜ゆうとほんまに真っ暗で、ふたり逢ってても顔もよう分らんかった。

姫は、この人どんな顔してんのやろ、いっかい昼間見たいなあと、いつも思っていた。

そしてついに云ってみた。

いつもすることだけして帰ってしまうけど、今日は朝までいてほしい、お願い。

あなたの素敵な顔を明るい光の下で見てみたい・・・。夜明けのコーヒーふたりで飲もうじゃん。

そらそうやなあ、ゆう通りや。分った。

明日の朝、お前の櫛箱の中に入っているし、わたしの姿見てくれ。そやけど、ぜったい驚かんといてな。

櫛箱の中?けったいなこと云う人や。

・・・

朝目が覚めると、やっぱりそばに彼の姿はなかった。夕べ変なこと云ってたなあ、櫛箱の中やて。

そっとその箱のふたを開けてみた。

ぎやー・・・!

そこには、きれいなちいさな蛇が箱の中にいた。

そして姫が叫ぶと同時に、蛇は人の姿になって云った。

ぜったい驚かんといてとお願いしたやんか、なのに・・・、わたしに恥じをかかせた。わたしもお前に恥じをかかせるから・・・。

空を飛んで、三輪山の方に消えた。

・・・

しもた、えらいことしてしもうた。あの人に恥じかかせてしもた。わたしどうしたらええの?

その場にどすんと腰を下ろした。

下ろした腰の下には箸があって、その箸で女性の大事なところを突き刺してしまった。

そして姫は亡くなってしまった。姫のなきがらを大市に葬った。

この墓を名付けて「箸墓」という。

この墓、昼は人が作り、夜は神が作ったという。大坂の山から石を運んだともいう。

ここにいう大坂とは、現在の香芝市穴虫に「大坂山口神社」があるように、二上山の北に位置する山らしい。

『和名抄』には、大和国葛上郡大坂郷がある。

この大坂から箸墓までは約15`、人民が連って手渡しにして運んだとあるが、

1b間隔に人が並んだとしたら1万5千人もの人が並んでこの箸墓の石を運んだことになる。

・・・・・

倭迹迹日百襲姫墓

古墳の横にある池畔に、この時歌われた歌謡の碑がある。

大坂に 継ぎ登れる 石群を 手遞伝に越さば 越しかてむかも

・・・・・

ところで、私がびっくり驚いた話。

百襲姫墓の上の写真を撮っていたとき、その垣根のそばに、突然大物主神が現われた。

1700年くらい時を経たのだろうか、もう櫛箱には入れないほどに大きくなっていた。

亡くなった百襲姫をきっと今も恋慕っているのだろう。お前のそばにずうっといたいから・・・。

大物主神は、墓地に開いたちいさな穴にするすると入って消えた。

実は私は蛇が大嫌いで、見るのも恐い。

しかしこんな千歳一遇の機会を写真にと、おそるおそるカメラを向けた。ズームいっぱいにして。

あわてちゃいかん、こんなとき尻もちでもついたら大変と、自分に言い聞かせながら。

・・・・・・・

『日本書紀』

是の後に、倭迹迹日百襲姫命、大物主神の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来す。倭迹迹姫命、夫に語りて曰はく、「君常に昼は見えたまはねば、分明に其の尊顔を視ること得ず。願はくは暫留りたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀を覲たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対へて曰はく、「言理灼然なり。吾明旦に汝が櫛笥に入りて居らむ。願はくは吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。爰に倭迹迹姫命、心の裏に密に異ぶ。明くるを待ちて櫛笥を見れば、遂に美麗しき小蛇有り。其の長さ大さ衣紐の如し。則ち驚きて叫啼ぶ。時に大神恥ぢて、忽に人の形と化りたまふ。其の妻に謂りて曰はく、「汝、忍びずして吾に羞せつ。吾還りて、汝に羞せむ」とのたまふ。仍りて大虚を踐みて、御諸山に登ります。爰に倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて急居。則箸に陰を撞きて薨りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。是の墓は、日は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民相踵ぎて、手遞伝にして運ぶ。時人歌して曰はく、
 大坂に 継ぎ登れる 石群を 手遞伝に越さば 越しかてむかも

←次へ              次へ→

記紀の旅中巻一覧表に戻る

記紀の旅

『古事記』 『日本書紀』 『風土記』

万葉集を携えて

inserted by FC2 system