天命開別天皇 天智天皇

あちこち

城を築かしむ

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663年8月、百済救援に向った日本軍は、白村江の戦いで大敗した。百済国は歴史上から消えた。

日本軍は百済の遺民とともに帰国したが、唐・新羅軍がさらに追い討ちを仕掛けてくるかもしれないという恐怖があった。

664年5月、唐使郭務?が筑紫にやってきた。目的は何だ。

百済の地を占有したという挨拶か、それとも日本の出方次第ではさらに侵攻もあるという脅しか。

唐使を筑紫に留めたまま、飯と酒を飲ませて宴会をし、土産を渡して帰国させた。

さあ、大変だ。敵はいつ攻めてくるやもしれぬ。『日本書紀』に、

「是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国等に、防と烽とを置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名けて水城と曰ふ。」

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壱岐島

壱岐で一番高い山は岳の辻213bである。それでも山頂の展望台に登ると、八方に視界が広がる。

山頂に烽火台がある。

無線のモールス信号や携帯電話のなかった当時、この烽火台から煙をあげて信号を送った。

例えば、黒い煙は敵の来襲とか、白い煙は食料送れとか、

視覚で確認できるから、光通信と同じ速さである。ただ、確認できる距離に限定はあるが。

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水城

福岡県太宰府市水城に、水城跡がある。

 

丘と見違えるのは、人の手で積み上げた大堤(土塁)で、その規模は全長1.2キロ、基底部の幅80b、高さ14bもある。

そして、現在は埋まっているが、外側(海側)に堀を造り、名の通り、幅60b深さ4bの水を貯えた。

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今まで外敵に侵攻されたことがないから、防備もあまい。いざ現実味を帯びてくると心配で心配で夜も眠れない。

665年、「達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣して、大野及び椽、二城を築かしむ。」

百済が滅亡したため渡来した人たちだろうか、城造りを命じられた。

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大野城 おおののき

大野城は、大野山全体を域とする構えの朝鮮式山城で、山の稜線に沿って土塁をめぐらし、谷には石垣を築き、

その内部には倉庫等の建物を設け、大宰府が危急のとき、ここで長期間籠城できるように造られている。

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椽城(基肄城とも)

 

基肄城跡は、福岡県筑紫野市と佐賀県基山町の境にある。

北東の低い鞍部に堤を築き峰々の間を埋め、稜線上に土や石を積み上げた土塁をめぐらしている。

土塁は2`にわたり、その内部全体が城になっている。

城内には、倉庫跡とみられる礎石が並び、南門近くには水門もみられる。

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九州の防備はだいぶ出来たけど、瀬戸内海から難波まで攻められたらどうすんのや。最前線の対馬も大丈夫か。

667年3月、都を近江に遷した。そして、

「倭国の高安城・讃吉国の山田郡の屋嶋城・対馬国の金田城を築く。」

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金田城

長崎県対馬市美津島町に、金田城跡がある。浅茅湾の南岸に突き出た城山275bにある。

山頂まで登ってみたが、この日は深い霧の中でなんも見えない。ぽつりと雨も降り出して急ぎ下山した。

こんな遠いところへ、千葉県や埼玉県や長野県から防人たちは連れて来られた。

ここまで来ると、さすがに逃げ出して家に帰ろうという気持ちは起こらない。だから東国の防人が選ばれた。

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屋島城

高松市屋島の浦生海岸から山中に入り、中腹辺りに城跡碑がある。

瀬戸内海を航行する船を見張り防衛する重要な城であった。

水軍との連繋も期待された城であろう。

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鬼ノ城

瀬戸内海対岸の岡山県総社市に、鬼ノ城がある。『日本書紀』には載らないがここも当時の山城と考えられる。

 

鬼ノ城の現地説明に、

鬼の城は、およそ1300年前に築かれた壮大で堅固な古代山城跡である。吉備高原の南端に位置しており、眼下の平野には、官衙(役所)、寺院などが建ち並び、古代の山陽道は東西に走り、吉備の津(港)から瀬戸内への海上交通も至便であることなど、政治・経済、軍事、交通上の要衝の背後地にあたる。城跡は、急峻な斜面と平坦な頂部をもち、遠く四国までも望見できる眺望絶佳な鬼城山(標高400b)を最高所とし、八合目から九合目にかけて城壁が鉢巻を締めたように約2.8`にわたって巡っている。城壁は、平均幅約7b、高さは約6bと推定されるが、大部分が土塁のため流失しており、高く積まれた石垣のみが残っている。谷部では排水のため強固な水門を5ヶ所に築いており、また4ヶ所に城門を設けている。この内3ヶ所(東・西・南)の城門が発掘調査され構造と規模の概要が判明し、また角楼という特殊な遺構も見つかっている。城内は30fという広大なもので、これまでに6棟の礎石総柱建物跡、溜井(水汲場)、狼煙場、土取り場も見つかっている。鬼ノ城の築城目的や時期については、諸説があるが、百済軍救援のため出兵した白村江の海戦(663年)において大敗し、唐・新羅連合軍の日本侵略を恐れ、西日本各地に築城したもののひとつと考えられている。

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高安城

高安城跡は、生駒山系の南端高安山にある。

 

築城後、畿内の田税である穀と塩を貯え非常時に備えたが、672年の壬申の乱で倉庫は炎上。

その後、天武・持統天皇時代に修築されたが、文武天皇の701年に廃城となった。

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鞠智城

熊本県山鹿市菊鹿町米原に、鞠智城跡がある。

『日本書紀』には載らないが、『続日本紀』文武天皇二年五月の条に、

「大宰府をして、大野・基肄・鞠智の三城を繕治はしむ」、とある。

鞠智城の初出であるが、大野・基肄と同時期の築城であろうと考えられる。

 

大野城、基肄城のような防衛の前線基地ではなく、兵站基地であろうと云われる。

「鞠智城跡から百済系仏像出土

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