天命開別天皇 天智天皇

滋賀県蒲生郡日野町小野

鬼室集斯

鬼室神社碑

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百済が滅亡すると、亡命者というか渡来人というか、すごい数の遺民たちが日本にやって来た。

『日本書紀』は、

「天智四年二月、百済の百姓男女四百余人を以て、近江国の神前郡に居く」

「天智八年是歳、佐平余自信、佐平鬼室集斯等、男女七百余人を以て、近江国の蒲生郡に遷し居く」

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老人もいたろう、女・子ども・赤子もいたろう。新羅に負けて、救いを日本に求めた。

しかし、何百・何千の人たちを乗せる船をどのようにして手配したのだろう。

あの対馬海峡、玄界灘をどのようにして渡ってきたのだろう。荒れ狂う波の日もあったろうに。

食料だって、過分にあったとは思えない。着の身着のまま、苦難の海峡を越えて渡ってきた。

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滋賀県蒲生郡日野町小野に、鬼室神社がある。

境内、本殿裏に石の祠がある。鬼室集斯の墓と伝わる。

『日本書紀』天智四年二月に、「佐平福信の功を以て、鬼室集斯に小錦下を授く」とあり、

天智十年正月に、「鬼室集斯、学職頭ふみのつかさのかみぞ」とある。

鬼室福信は、百済滅亡の後、再興の挙兵を起し、日本にいた王子豊璋を呼び戻して奮闘したが、

豊璋との意見が合わず、豊璋に殺されてしまった。集斯はその福信の子であろうか。その功により冠位を授かるとある。

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鬼室福信は、韓国・扶余郡恩山面にある恩山面神堂に祀られている。

鬼室集斯の祀られている日野町と恩山面とは姉妹都市交流が行われている。日野町小野に住む知人は毎年のように扶余にでかけている。

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私が初めてこの鬼室神社を訪ねたときのこと、

近くまで来ているはずだけと、道に迷ってしまった。畑で農作業をするひとりの農婦がいた。

神社への道をたずねると、「ご夫婦で墓参りですか。わざわざ韓国からお越しになったのですか」と、親切に道を教えてくれた。

ちょっと耳が遠いようで、わざわざ日本人ということもなかろうと、私たちは「カムサハムニダ」と礼を云って、神社に向った。

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日野町銀座と呼ばれる町の中心地に、「鬼室集斯の祠」という石碑が立っている。

その下には「一里二十六町」とあり、1里は約4K、1町は約100mだから、ここから左へ6.6Kということ。

えらい有名なんだろうけど、これでは道標にならんなあ。

 

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私が初めて韓国・扶余を訪ねたのは、万葉画家・鈴木靖将先生の展覧会が扶余で開催されたときだった。

扶余のみなさんが歓迎の宴を開いてくれた。

「あなたとわたしは、40代前からの親戚。今は別々の国に暮すけれど、兄弟のようなもの」と、迎えてくれた。

鈴木先生が、そのときに「百済へ帰国した夫婦」と描いてくださった。

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