天命開別天皇 天智天皇

滋賀県大津市錦織

大津宮

滋賀県大津市錦織に、大津宮跡(錦織遺跡)がある。

・・・

天智六年(667)、中大兄皇子は都を近江国大津に遷した。

天智二年(663)、白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に敗れ、日本への侵攻を恐れた皇子は、

北九州から瀬戸内海岸に山城を築き、防衛を固めるとともに、大和からこの大津に遷都した。

そして翌年の天智七年(668)、即位して天智天皇となる。

しかし、671年、天智天皇は崩御、天智の子大友皇子と天智の弟大海人皇子との間で皇位継承の乱が起きる。

天武元年(672)、壬申の乱である。

大友側が敗れ、大津宮はわずか5年余で消えた。

・・・・・

滋賀県東近江市

蒲生野

『万葉集』に、次の歌がある。額田王と大海人皇子の歌である。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 巻1−20

紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我れ恋ひめやも 巻1−21

『日本書紀』に、

天智七年(668)、五月五日に、蒲生野に縦猟したまふ。時に、大皇弟・諸王、内臣及び群臣、皆悉に従なり。

ここ蒲生野で薬猟が盛大に行われた。

天智天皇が主催者、傍には藤原鎌足もいる。

もちろん額田王も参加し、大海人との間でこの相聞らしき歌がかわされた。

薬猟とは、鹿茸(鹿の角袋)や薬草を採る宮廷の行楽的な行事である。

大海人皇子や諸王は馬に乗り鹿を追い、額田王は薬草を摘んでいた。雰囲気は今風にいえば、レクリェーションのようなもの。

そのときに詠まれた相聞風の歌だから、そんな真剣に受けとめなくてもと思う。

これが原因で壬申の乱を招いたはちょっと深刻すぎる。宴歌として皆の前で披露されたものであろう。

・・・

東近江市の船岡山には、「蒲生野遊猟」の陶板モニュメントがある。

・・・・・

滋賀県大津市神宮町

近江神宮

天智天皇を祀る神社であるが、昭和15年の創祀で古の故地とは云い難い。

『日本書紀』天智十年(671)夏四月の条に、

漏剋を新しき臺に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。始めて漏剋を用ゐる。

この漏剋は、天皇の、皇太子に為す時に、始めて親ら製造れる所なりと、云云。

・・・

境内に、漏刻を模したモニュメントがある。

天智天皇は時計の神さまになり、祭礼には全国の時計業者が時計を奉納する。時計博物館まである。

ロレックスなどがお下がりで頂だいできると嬉しいが。

・・・

また、『小倉百人一首』の第一歌は、天智天皇の歌、

秋の田の 刈り穂の庵の 苫を荒み わが衣手は 露にぬれつつ

これにちなみ、当神宮では、かるた競技が行われる。名人戦とかクィーン戦である。

・・・・・

京都市山科区御陵町

天智天皇陵

私が利用するJR琵琶湖線、京都駅と山科駅の間の車窓から天智陵が見える。

天智十年(671)十二月、近江宮に崩りましぬ。

・・・

『日本書紀』天武天皇元年(672)五月の条に、

朴井連雄君天皇に奏して曰く、

時に朝廷、「山陵造らむが為に、予め人夫を差し定めよ」とのたまふ。

則ち人別に兵を執らしむ。臣、以為はく、山陵を為るには非し、必ず事有らむと。

・・・

近江朝廷は、天智天皇の陵を築くためといって東国の人夫を集めている。しかし、皆兵器を持っている。これは戦の準備である。

壬申の乱の始まりである。

・・・

『続日本紀』文武天皇三年(699)冬十月の詔に、

「天下の罪有る者を赦す」とのたまふ。越智・山科の二の山陵を営造せむと欲るが為なり。

越智とは斉明陵、山科とは天智陵、天智天皇が亡くなって28年後に、ようやく陵が造られた。

←次へ              次へ→

記紀の旅下巻一覧表に戻る

記紀の旅

『古事記』 『日本書紀』 『風土記』

万葉集を携えて

inserted by FC2 system