邇邇芸命 天孫降臨 宮崎県・鹿児島県 高千穂 天孫(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)が降臨した高千穂の伝承地として、宮崎・鹿児島両県の境の高千穂峰と、宮崎県高千穂町が名高いが、まずは「高千穂峰」。 その前に、神さまがたくさんおられてニニギってだれやねん、とおっしゃる方もおられるだろうから、宮崎県でもらったパンフレットの「神々の系図」をご覧ください。分かりやすいし、おもしろいと思いませんか。 ・・・・・ 鹿児島県霧島市田口に「高千穂河原」がある。 ここは霧島神宮の古宮跡、天孫ニニギが降臨したという高千穂峰が望める。(上の写真)。高千穂峰(1574b)は霧島連峰にひとつ、山頂にはご神体の「天之逆鉾」があるというが、私は登っていないから・・・。 霧島神宮は、初め高千穂の峰と御鉢(噴火口)の間にあったが、1400年前の噴火で焼失、その後この地に再建されたが、それも1000年前の噴火で焼失し、現在の地に移された。古宮跡は天孫降臨神籬斎場とされる。(次の写真) ・・・ 霧島神宮 鹿児島県霧島市田口 祭神はもちろん瓊瓊杵尊であるが、フルネームだろうか、「天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊」 高千穂峰は広く鹿児島県宮崎県にまたがるから、あちこちの麓に霧島神社がある。 その多くはもちろん瓊瓊杵尊を祀るが、奥さんの木花開耶姫命も祀られる。その中で私の気に入りの神社を紹介。 ・・・ 霧島岑神社 宮崎県小林市細野 参道入口左右に立つ石造の仁王像がいい。 主祭神のフルネームが『古事記』風に、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命。 サインするときとか、試験のとき答案用紙に名前書くのが大変やな。 ・・・・・・・ 宮崎県西臼杵郡高千穂町に移ります。 「瓊瓊杵尊・大鉗小鉗」像 宮崎県高千穂町上押方の国見ヶ丘というところに、この像はある。真ん中に瓊瓊杵尊が立ち、両脇に跪くのが大鉗と小鉗という。 これは、『日向風土記』に記された話にもとづくもの。 ・・・ 『日向風土記』逸文 日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪の郷、天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く夜晝別かず。人物道を失ひ、物の色別き難かりき。ここに、土蜘蛛、名を大鉗・小鉗と曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾となして、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大鉗等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。 ・・・ この国見ヶ丘からは、四方に展望が開け、高千穂の盆地や遠く阿蘇の山々まで見渡すことができる。まさに国見の丘である。 西に高千穂盆地 東には、遠く阿蘇の山々 ・・・・・ 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井 高千穂神宮 この地に宮居を定めた瓊瓊杵尊、木花開耶姫以下三代の神々を祀る。 ?觸神社 天降りした瓊々杵尊と随行した神々を祀る。往古は峯そのものを神体として祀っていた。 『記紀』にいう「くしふるだけ」がここ。 境内にはあちこちに遺跡があり、 天真名井 瓊瓊杵尊が降臨のとき、この地に水がなく、再び高天原に戻り、天真名井の水種をここに移したという。 四皇子峰 神武天皇の兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御陵が祀られる。 四皇子とは、五瀬命・稲水命・御毛沼命・若御毛沼命(狭野命・後の神武天皇) 高天原遥拝所 天孫降臨後、諸神がこの丘に立って高天原を遥拝したところ。 私の近所の神社には伊勢神宮遥拝所とか、神武天皇遥拝所があるが、やっぱりここは格上や。高天原遥拝や。 荒立神社 祭神 猿田彦命・天鈿女命 瓊瓊杵尊の降臨の途中、出迎えて高千穂に案内役を務めた猿田彦命と、尊の命により猿田彦と結婚した天鈿女命を祀る。 ふたりは?觸峯から切り出したばかりの荒木で家を建て住居と定めた。荒建宮・荒立宮である。現在の真新しい社殿も白木造りである。 ひとりごと この国に初めて降り立った瓊瓊杵尊、その地が高千穂という九州の地であるという。 なんで大和の近くと違うのだろう。 きっと、我々の祖先はみんな朝鮮半島から渡ってきた民族なんだ。 だから、初めて着いたところが九州、ここから日本の歴史が始まると『記紀』は書かねばならかった。 ・・・・・・・ 『古事記』 天孫降臨 故爾に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穗の久士布流多気に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の真鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、此は大伴連等の祖。天津久米命、此は久米直等の祖なり。是に詔りたまひしく、「此地は、韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原に氷椽多迦斯理て坐しき。 『日本書紀』 時に、高皇産霊尊、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穗峯に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、?日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、立於浮渚在平處、と云ふ。膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去りて、吾田の長屋の笠狭碕に到ります。 |
記紀の旅
『古事記』 『日本書紀』 『風土記』